遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

未完成交響楽

大阪フィルの定演でシューベルトの「未完成」を演る、ということで足を運んだ。前半はラヴェルの《マ・メール・ロワ》、《ラ・ヴァルス》の間に今回タクトを執るハインツ・ホリガー作曲《エリス》のピアノ独奏版と管弦楽版を共に挟み、後半はシューベルトが晩年に遺した未完成の交響曲のスケッチにオーケストレーションを施した《アンダンテロ短調》そしてそのままアタッカで《交響曲第7番ロ短調「未完成」》へ—というプログラムだった。

 

マ・メール・ロワ》もぼくのお気に入りの作品なのだが、今回は「未完成」について話すとしよう。つい数ヶ月前まで六八〇小節のスコアを穴が空くほど読み込み、毎週指揮台の上に立ってこのどうしようもなく切なくて愛おしい交響曲に向き合ったぼくにとって、いやでも色々な感情が浮き上がってくる作品なのだ。

 

コントラバスとチェロによる重い序奏に始まる第一楽章。少し、また少しと夜が明けて行き、暗闇は薄い紺色に変わって行く。弱い光の中見えるのは風に揺れる木立と黒い畑を覆う白雪だ。東山魁夷の作品に、そんな絵画があった気がする。コートの襟を立てて畑を貫く道をとぼとぼ歩いて行く。時折風が深くかぶった山高帽を飛ばそうと吹き抜ける。帽子は飛びはしなくとも、北風は荒んだ心には堪えるものだ。しばし甘い日々に想いを馳せるものの所詮は幻想。現実はどこまでも残酷だ。幸せだったはずの日々は皮肉にもぼくを裏切る。断ち切られた幸福と引き換えに、受難の時間が始まる。頭によぎるのはマティアス・グリューネヴァルトの《イーゼンハイム祭壇画》。重いポザウネン・コアの奏楽を聴きながらぼくは葛藤する。やがて鞭打ちがなされる。痛い!ぼくが何をしたというのだ?ぼくはただ、当たり前の幸せが欲しかっただけなのに。一瞬明るい光が見えた気がした。ゴシック教会のステンドグラス越しに降り注ぐ光のごとく、柔らかくしかし鮮烈な光。でも、気づけばぼくは元の畑に雪の中横たわっているのである。再びぼくは道を行く。黒く足跡を残しながら。かつての独りよがりの幸福とあり得ない未来を信じていた日々を胸に残しながら、冬木立の向こうへと。

 

ホルンの柔らかな音色が第二楽章の始まりを告げる。ぼくは夢を見ていた。柔らかな布団の中で、幸せな夢を。安らぎの中でぼくは肯定的に歩き出す。その歩みに応えるように賛歌が聞こえる。幸せの一方、ぼくは不安だった。この幸福は本物なのか?いつまでもここにいていいのか?いいんだよ、という声が聞こえてくる。菩提樹がぼくに囁いているのだ。ほっとしたのも束の間、その安心は裏の顔を見せる。ぼくは磔にされ、逃れられぬ業火の中で苦しみ、もがく。葛藤の末にぼくはまた安らぎへと戻って行く。ぼくはもう一度、歩き始める。暖かな光の中で。もう一度不安に襲われ、現実に向き合おうとしてもぼくは偽りの平和を求めてしまう。臆病なぼくはどこまでも現実から流れて、都合の良い幻想に浸っていたいのだ。これが幻想だと知りながら、ぼくはまどろみの中へ溶けて行く。深く、どこまでも深く。

 

現実を直視させる強奏に始まる諧謔的な第三楽章は結局完成していない。それで良かったのだ。たとえ幻でも、平和なまま終わりにして仕舞えばいい。

 

「未完成」はこんな薄っぺらい物語ではないと思うし、絶対音楽を劇場的に鑑賞するのは邪道だとは思う。でも、ぼくはこんな風に思わずにはいられないのだ。

 

そういう意味でこの交響曲はぼくの中で、ぼくそのものになっている。