ある人は傑作と称え、ある人は単なるプロパガンダと見る作品。ドミトリー・ショスタコーヴィチの《交響曲第七番『レニングラード』》はそう言って良いだろう。
去る日曜日のことだ。京都市交響楽団が「レニングラード」を演るというので足を運んだ。指定のできない学生S席だったが、幸運なことに一階席中央後方という良席を割り当てられた。
そして、ぼくは思わぬ経験をする。
レニングラード、それも第一楽章、さらに言えば「戦争の主題」で不覚にも泣いてしまったのだ。
冒頭、力強くハ長調の旋律が歌われる。「人間の主題」だ。活力に満ちた歌声、鳴り響くファンファーレ。市民は歴史と文化あるこの都市を誇る。冷たい空気の中、鳥は愛らしく歌う。
それは嵐の前の静けさだ。
一九四一年。ドイツ軍はポーランドから白ロシア・ウクライナへと侵攻、ミンスクやキエフ、オデッサ等では大規模な包囲戦が展開される。そしてレニングラードも例外ではなかった。呑気に聞こえる行進曲、「戦争の主題」は次第に凶悪な敵となって街を襲う。軍靴の音は銃声に変わり、砲撃が加えられる。当たり前の日常が消える恐ろしさを感じたその時、ぼくは涙していたのだ。
レニングラード交響曲はその長さもさることながら、重いテーマを抱えた作品だということは分かっていた。然し、どこかで甘く見ていたのだ。続く交響曲第八番のような底のない暗さと皮肉、背筋が凍るような恐怖と残酷さは持たないと思っていた。それは違った。「レニングラード」は確かに分かりやすい。標題音楽にも近いだろう。でもそれは決して陳腐な代物ではなかった。ナチの批判?ソヴィエトの賛美?否、そんなものを超越した戦禍、そして権力による暴力を必死に訴えたのではないのか。
レニングラード包囲戦はソヴィエトの勝利に終わる。然しその犠牲は大きく、市内は生き地獄の様相を呈し、死者は市民だけで六十七万とも、百万を超すとも言われる。
—たとえ両腕を切り落とされても、私はペンをくわえて音楽を書き続けるだろう—この言葉の重みをひしひしと感じるばかりである。