遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

歴史と物語(院試日記 5日目)

メーラーが不調だったのだろうか、ゼミの休講通知がぼくの元に来ず、暫くパソコンの画面の前でただ時間を浪費してしまった。休講というと北村薫の『空飛ぶ馬』の最初のエピソードを思い出す。1990年代。まだインターネットも電子メールも普及しきっていない時代だ、朝早く大学に来た主人公は事務室の掲示板を見て1限目の休講を知るのである。この後彼女は手持ち無沙汰に曇ったガラスに落書きをする。


«L'histoire»。

フランス語で「歴史」。

 

こんな言葉をぱっと落書きできるような大学生活を送りたかった、と何度思ったことだろう。この小説に出会ったのは高校3年生の頃で、そこに描かれる文学部の学生生活にぼくは少なからず憧れを抱いた。高校生のぼくは小説の随所に散りばめられた文学や歴史、芸術についての教養から、「文学部とはこんなところで、そこでの生活はこんなにも魅力的なんだ」と漠然と思っていたのだ。

 

さて、彼女は«L'histoire»と書いてみせたわけだが、この言葉には「歴史」の他に「物語」の意味もある。人文学という学問は究極的には凡そどちらかを扱うことになるので、なんとも文学部の学生らしい言葉のチョイスではないか。フランス語に限らず、この2つの言葉はドイツ語でもともに„die Geschichte"だ。西洋美術のジャンルの1つに一般に「歴史画」と呼ばれるものがあるが、これは実際の出来事のみならず神話や宗教に取材したものも含む。むしろ近代までは後者の方がメインだったのではないだろうか。「歴史画」という名前は前述したように「歴史」と「物語」が同一の語で示されるためについた訳語なのだろうが、個人としては「物語画」と訳した方が適当だと思う。「歴史画」というとどうしてもダヴィッドやジェリコーの作品をはじめとした、現実の出来事を題材とした絵画だけを思い浮かべてしまう。

 

「歴史」と「物語」が同じ単語ということは、実は歴史が物語であるということを示唆している。実際、歴史というのは実際に起こった出来事を扱うとしても語り手や書き手がいるものであり、完全に客観的にはなりえないだろう。歴史認識を巡って人や国が対立する事例はいやというほどあるが、本質的に「正しい」歴史を語るのは不可能に近いので致し方ない面はあるとは思う。とはいえ、それは客観的であろうとすることを否定することにはならない。たとえ完全に客観的になるのは無理でもそのために努力することは無駄ではないし、歴史というものには少なからずバイアスがかかっていると分かっているだけでも見方は変わってくるだろう。

 

西洋美術史をクロノロジーに沿って復習していると、どうしても記述を覚えることに終始して理解とか解釈といったことを忘れてしまいそうになる。歴史を扱う以上、その点は気に留めておきたいものである。

 

今日の記録

研究関係 1.5h

美術史(フランス革命ナポレオン戦争ダヴィッド/ゴヤ) 1.5h

独語(疑問詞・過去基本形と過去分詞) 1.5h

計 4.5h

 

少々気が緩んでしまったので持ち直したい。