遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

アマオケざっくばらん

世は大アマオケ時代

……と言えるかどうかはさておき、本邦には多数のアマチュア・オーケストラが存在する。ここ2年は演奏会の開催どころか練習さえままならぬオーケストラも多かったと思うが、今日も演奏会情報を調べればどこかしらのオケが本番を控え、Twitterのタイムラインは宣伝なり感想なりで溢れている。

所謂「市民オケ」的な、何十年か続いているようなアマオケは基本的に団員は固定制であり、練習場は決まった場所が確保されているところが多いように思える。場合によっては自治体が後援についている団もあるだろう。しかし、4年前後で団員が入れ替わる大学オケとは異なり、アマオケの人員が流動的になるはずもなく、故にシートが空くことは少なくなっていく。一方で大学オケを出た奏者たちは新しい演奏の場を求めるわけであり、必要なシートに対して奏者は飽和状態となる。特に管楽器の置かれた状況は厳しく、吹奏楽〜学生オケという豊かな育成環境で涵養された管楽器人口に比してオーケストラに必要な管楽器の本数はそこまで多くないため、(だいたいのオケで「急募!」になっているファゴットを除いて)空席が見つからないことが殆どだったりする。
恐らく、こうしてアマオケが林立する土壌が整うわけであるが、最近発足したアマオケは古株のアマオケとは異なる特徴があるようだ。

第一に、固定の団員が基本的にいないことが多い。つまりその都度奏者を募集するスタイルを取るのである。
第二に、決まった練習場を持たないことが殆どである。故に幹部たちはその確保に追われることとなる。
第二の特徴はさておき、第一の特徴はそんなに悪いものには見えない。多くの奏者に演奏の機会を提供できる上に団体の新陳代謝を図ることができるためだ。しかし、本当にそれができているのか?という疑問は残る。都度募集する形を取っているオケで、実際に前回からの参加者が優先的にシートを得ている例はそれなりにあると思われる。そうなると結局は既存のアマオケの状況(大体のパートでシートが足りている)とそこまで変わらなくなってしまう。そして運営陣はじめ中核にいる人は既存のアマオケ以上に固定され、一部メンバーが全体を牛耳ることになりかねない。そしてまた新しいアマオケが誕生する—
この手のオーケストラは機構的な意味でも弱いところが多いように思える。一個人の運営力や情熱を頼りに設立された団体が一定数見られるのだ。こうした団体が第一回定期演奏会を開催できても、その後継続的活動がどのくらいできるのか?と考えると、その未来図は決して楽しいものではないだろう。数回の活動で尻すぼみになってしまいそうな楽団は想像してみれば幾つもある。まして私の住む地域では、特定のオルガナイザーがいくつもの団体を旗揚げしているような印象さえ否めない。嗚呼、どうか作った団の存続と成長に責任を持つことを忘れなければ良いのだが。
ではどうすればよいのか?正直ぼくは一奏者であって運営のことは何もわからないのでこれに関して正しい意見を抱けているとは思えない。でも多分、「ちゃんとした組織」と「ちゃんとしたコンセプト」が必要なのだと思う。組織に関しては言うまでもない。創設者がぶっ倒れても瓦解しない構造を作っておく必要があるのは当然だろう。特に会計と演奏会運営に関しては見切り発車ではどうにもならないだろう。頭が固いのかもしれないが、所謂「定款」は必要だと思う。
コンセプトに関してはちょっと難しい。例えば回ごとに特定の国・作曲家を取り上げるだとか、マイナー作品に光を当てるだとか、新曲初演をやるだとか、そういうプログラム面での差異は出しやすいし、そういったコンセプトの楽団はそんな簡単にどん詰まりにはならないだろう。しかし、プログラム重視の楽団ばかりが溢れるのは奏者としても聴衆としてもそこまでは望ましいものでもないとも思うのだ。「ヴァーグナー:『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲/チャイコフスキー:バレエ組曲『眠りの森の美女』/ドヴォジャーク:交響曲第8番」みたいなプログラムをやる楽団は色々な意味でこれからも必要とされるだろう。そうした場合、頑張ってコンセプトを打ち出すと「人との交流」とか、「技術の向上」とか、どこも似たり寄ったりになる。古株アマオケのごとく、行政なり何なりがバックにあれば特に理念的拠り所がなくてもやっていけるのだが……

マチュアの奏者は合奏をする環境を求めており、その場を提供すると言う意味でアマオケが林立するのは決して悪いことではない。ただ思うのは、発起人がどれくらい計画性を持っているのだろうか、と言うことである。その辺りが不明瞭なため、近年正直「ようわからんオケが乱立してますなあ」と思ってしまうのだ。

ま、難しく考え過ぎかもしれないけれども。