遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

哲学的意味(修論日記 1日目)

先日、《プリペアド・ピアノのためのソナタとインターリュード》を実演で聴いた。ケージの代表作と言っていい作品だ。静かなコンサートホール、ピアニストとピアノに向けられたスポット以外が落とされた暗い空間、その中に響く風変わりなピアノの音。どこか瞑想的な音楽を聴きながら、例えばSNSできょうの感想を述べるとしたらどのような文面をぼくは書くのだろう、とぼんやりと考えていた。最近、どんな感想を言っても浅ましさが垣間見える気がしてならず、演奏会や展覧会の感想を投稿する行為をパタリとやめてしまった。恥を晒すくらいなら沈黙したほうがずっと楽なのだ。演奏の良し悪しは自分の中に留めておけばいいし、それを他人に言う必要は無い。わざわざ発信するのは、ぼくにとっては醜い自己顕示欲の現れでしかなかった。演奏会のあとに、本当に親しいひとにだけ「よかった」と漏らすだけで充分ではないか。
そのようなことを自己顕示欲の権化のようなブログに書いている時点で矛盾しているのだが、人間そんなもんなのだろう。多分。

矛盾といえば、いま読み返している『さよなら妖精』の中に、「漢字で書くと矛盾するため、ひらがなにした名前」の謎解きのくだりがある。この謎には作品内でいうところの哲学的意味が込められているわけだが、自己顕示を嫌う一方でその欲求に逃れられないこの態度にも、なんらかの意味があるのだろうか。
取り敢えず思うことは一つ。どうせ取り繕っても虚仮威しにしかならないのだから、もう少し謙虚な人間になりたいということだ。

一応修論日記なのでその話も。出先なので身動きが取れないが、取り敢えず論を固める傍証的論文を幾つかリストアップした。以上。