遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

ぼくの心を沈めたい(院試日記Ⅱ 5日目)

後ろの座席の方から下品な笑い声が聞こえて来る。僕は今、名古屋から大阪に向かう近鉄特急に乗っていた。実際の声量以上にうるさく聞こえる団体客が同じ車両に乗り合わせていたのは失敗だった。仕方がない。座席を取るときにそれはわからないのだし、彼らにも談笑する権利は与えられているのだから。

『独文解釈の研究』を読むのを暫しやめ、読むものを手持ちの文庫本に取り替えて気分転換を図る。凡そ一年ぶりに読み返している、クンデラの『不滅』。奇しくも、今日名古屋に行っていた理由はその小説と同じ邦題を持つ交響曲のためであった。

 

クンデラの『不滅』の原題(チェコ語/仏語)はNesmrtelnost/L'Immortalité(英: Immortality、不死・不朽)なのに対し、カール・ニルセンの交響曲第4番「不滅」の原題(丁語)はDet Uudslukkelige(英: The Inextinguishable、消すことのできない)なのでそもそもの意味が異なるのだが(後者はより原義に近い「消し難きもの」や「滅ぼし得ざるもの」の題が使われることもある)、どちらも本邦では「不滅」という題を以て知られている。偶然にもこの二つの「不滅」が重なったことに勝手に運命じみたものを感じることを許してほしい。

大阪から名古屋への距離は案外短く、普通列車なら安価にいくこともできるし、近鉄特急や新幹線でもそこまで高くない。そのため、僕は割と頻繁に名古屋フィルや愛知室内オーケストラを聴きに行っている。今回のお目当ては名古屋フィル定期。同オケの演奏水準は個人的に信頼しているし、ニルセンの交響曲は人並みに好きなのでかなり楽しみにしていた。

ニルセンの交響曲は全6曲あり、次第に内容が難解になっていくように聞こえるのだが、その一方で根底にある語り口は変わらないようにも思える。縦の揃った弦楽の動き、浮遊感のある木管、朗々と響く金管、そして所々で決定的な役割を果たす打楽器。1番から順番に聴いていくと不思議とその語法に慣れ、案外スッと音楽が入ってくることに驚かされるのである。

交響曲第4番は、どちらかといえば聴きやすい部類に入る方だとは思う。しかしその内容はかなりユニークと言える。何よりこの曲は第4部(この交響曲には「楽章」は存在しないが、ほぼそれに相当する4つの部分から成り立っている)で暴れまくる2組のティンパニで知られている。この奇抜な2組のティンパニの「対決」が、なかなかどうして、格好良いのである。

名古屋フィルの演奏は高い水準で統率され、かつ熱量も十二分の好演で、これ以上のニルセン4番もなかなか望めないと感じさせるものだった。第2部の木管のアンサンブルや第3部から第4部へのアタッカの弦楽の精度の高さには驚かされたし、第4部の金打楽器はダイナミクスの強さを維持しながらも全てをベタ塗りにするような品のないことはしない、上々の出来だったと思う。

そんな余韻に浸りつつ、僕は近鉄特急の中でもう一つの『不滅』を展いていた。思えば、ニルセンの交響曲を1番から順に聴いて慣れていくことができたように、クンデラの小説もまた、初期作の『冗談』や『別れのワルツ』を興味深く読めたおかげで『存在の耐えられない軽さ』や『不滅』を読み進めることができている、という部分があるように思える。偶然の二つの「不滅」の邂逅に感謝しつつ、僕はページをめくった。小説は、間も無く終わりを迎える。

 

今日の記録

『独文解釈の研究』第28〜44課。