遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

年暮る

クリスマスのあたりから「今年ももう終わるなあ」などと思い始め、そう言っている間にすぐに年が明けてしまうのだろうと、そう思って過ごしていたのだが、案外クリスマス明けから大晦日までは時間的猶予がある—そんな不思議な感覚を味わいながら、2023年最後の一週間は過ぎていった。精神的な余裕のなさを可視化したかの如くに荒れ放題だった自宅アパートを3日ほどかけて整頓し、溜まっていた空き缶やペットボトルをまとめて処分し、消耗品を買い換える。すると何だか気持ちも晴れやかになり、大袈裟だが今日から人生がまるまる素敵に変わるのではないか、なんて心持ちにさえなる。

本質的に、ぼくと云う人間は単純にできているのだ。

一向に減る気配のない本とCDの収納先だけは定まらないまま年を越すことになってしまったが、一年の最後に生活上の膿を一掃できたのは大きいことだった。残りは年明けに大きめの本棚でも買って対処しよう。

 

いま、私は予定より2時間遅い特急に乗っている。何のことはない、寝坊したのだ。

昨晩は涙が出るほど素敵な夜だった。同じ研究室で苦楽を共にした—いや私の研究室はおのおの独立独歩の気風が強いので、どちらかといえば「それぞれに異なる苦楽を経験したが、しかしあの一種リベラルな同じ空気の下で研究した」と言ったほうがいいかもしれない—そんな先輩・同期とお酒を飲み交わした。問題は帰宅してからである。それほど沢山飲んだわけでもなく、家に着いたのは日付を回ってすぐくらいだったのだが、早い時間の新幹線をとっていたのもあって、今寝たら起きられないのではないか—という恐怖に駆られた。眠らなくてもよかったのだが、徹夜をして体調を崩すのも怖かった。しばらく悩んだ末、ぼくは布団に潜り込んだ。

失敗だった。ぼくは新幹線の出発時刻の30分後に起床した。そのくせ変に冷静で、起きてすぐに新幹線の予約を取り直すという思考回路に至っていた。

郷里に帰っても特に楽しいことがあるわけでもない。高校の友人に会えることだけは楽しみだが、それ以外は血縁と義理によって課された義務を果たし、その対価を多少受け取るだけのことだ。

中津川への到着を告げるアナウンスを聞きながら、昨晩の幸福な時間を思い出す。自分の考えや意見を包み隠さず言い合える関係、互いの研究を尊重し合える環境、くだらない話から専門的な議論まで語り合える人々。その中に身を置けたことをぼくは嬉しく思うし、多分数十年後に誇りに思うだろう。そこは、郷里以上にぼくの居場所なのだ。そして将来的には、皆別に偉くなっていなくても良いから、それぞれの場所でいい仕事をしていて欲しいと思う。

 

間もなく列車は木曽谷に入る。木曽路は雪こそ積もっていないが、深い霧に包まれている。木曽川の緑の水面も、針葉樹の影も、全て不可触のベールの奥にあり、さながら東山魁夷の世界だ。

正直帰省は—寝坊したこともあり—気分が乗るものでもないが、年が明けて大阪に帰ればまた一次資料と論文、それからアルファベットとの格闘が始まる。忙しいほうがいい。そのほうが余計なことを考えずに済む。部屋も片付いたことだ、きっとまっさらな気持ちで研究に取り組めるだろう。

あと10時間もしたら今年も終わってしまう。お世話になった皆様に感謝の意を、そしてどうしようもなかった一年にさよならを……最後にみなさま、良いお年を。

小説を書こうとしていた

昨年の秋のことである。提出まで三ヶ月を切った修士論文そっちのけで、私は原稿用紙に向かっていた。

小説を、書こうとしていた。

私の部屋には、書きかけの原稿が残っている。結局四百字詰め原稿用紙二十二枚分しか進まなかったのだが、その頭には小説の構成というか、青写真のようなメモがつけてある。

この小説は『虚空』という題がつけられている。格好をつけたかったのだろう、Le vide/Prázdnota/Das Leereと何故か三言語で題の訳までつけてある。この下には「七部から成る交響的小説・全てはフィクションである」と、サムい説明がつけてある。一応これには発想源がある。私が敬愛する或る小説家が七部構成の小説に拘っており、かつ自作の章について「アンダンテ」や「アダージョ」、「アレグロ」と云った音楽用語を用いて説明していたのだ。それを形式上真似したのだ—噫!なんてスノッブなんだ!

『虚空』の章立ては、以下のようになっている。

Ⅰ. 錯覚

Ⅱ. 追想の日(or 告別)

Ⅲ. 文字の羅列、あるいは情報の海

Ⅳ. 年暮る

Ⅴ. 紙束

Ⅵ. 窓(or 執行猶予)

Ⅶ. とある日の饗宴

 

どの章でどんなことを書こうとしていたのかはかなり鮮明に覚えているのだが、それを綴るとあまりに恥ずかしいのでやめておく。ただ、簡単にいえば学部二回生頃から修士二年までの様々な体験を散りばめ、それを修士論文執筆の過程に乗せて再構成するような計画だったとだけ言っておく。そして、これはあくまでフィクションであって、私小説的ではあっても体験談ではない。

 

この中断した小説、そして多分再開することのない小説をおよそ一年ぶりに思い出したのは、たぶんブラームスのピアノ四重奏曲第三番のフィナーレを聴いたからだと思う。私は、ついに到達することのなかった『虚空』の第七章(最終章)において、「教授の退官記念パーティ」と「とある読書会」(これは結局実現しなかった)という、性格の異なる二つの饗宴を、非常に"せわしい"文章によって描こうとしていた。今年、九月の半ばに、何の気なしにブラームスのOp. 60の最終楽章聴いた時、一文字も書いていない第七章は"こう"なるはずだったのかもしれない、などと思った。前奏なしでいきなり第一主題がアレグロ・コモドのテンポで現れる—運命動機に始まるせわしないピアノを伴って。私はこの秋、この曲を何度も何度も聴いている。きっと、明日も明後日もそうするのだろう。

 

このピアノ四重奏曲は、何やら色々なエピソード(その中には真実もあれば虚構もあるのだろう)の故にウェルテル四重奏曲と呼ばれている。私はそれを知らずにこの曲を聴き始めたのだが、今にして思えば何だかそれすら示唆的に思えてきた。

秋に淋しき者

夜8時過ぎ、自宅への最寄駅に着いた足は自然に駅前のコメダ珈琲店に向かっていた。家に帰りたくなかった。コメダに逃げ込めば、少なくとも10時までは精神的亡命が許される。

 

3時間ほど時を戻そう。その頃ぼくはまだ横浜にいた。文明と云うのは大したもので、『細雪』の頃ならば8時間以上かかっていた東海道を、2時間半もあれば走破できるのだ。

季節が夏から秋へと変わるこの3日間を、ぼくは東京と横浜で過ごした。いくつかの美術館と演奏会とを梯子し、客観的に見れば文化的生活を満喫した。見るべき点の多い展覧会や作品を愉しみ、佳い演奏に触れた。総体として満足度の高い旅だった。それでも何やら靄がかかったような心持ちになるのは秋の訪れ故なのだろうか。

 

秋は、好きな季節のはずだった。新しい空気と苟且の高揚感を強制する春や、気温と日射で以て心身を疲弊させる夏と違い、秋は常に味方でいてくれる季節だった。そのはずなのに今年はどうも様子がおかしいのである。

原因になりそうなものの一つはいつまで経っても進捗の生まれない、目下執筆中の原稿である。一次資料の収集と分析に関してはそれなりにできるつもりでいるのだが、そこから新しい知見をもたらそうと思うとどうも甘くなってしまう。それがネックでなかなか筆が進まないのだ。こんな調子では先が思いやられるが、自身の課題が見つかっただけよしとしよう。どのみち締め切りまでに仕事はこなさねばならないので泣き言も言っていられない。

しかし以上の現実的課題があるにしても、こんなにも息が詰まりそうなのはちょっとおかしい。例年なら秋の到来とともにましになるはずなのだ。

 

昨年の秋、自分が何をしていたかを考える。勿論修士論文を書いていたのだが、それと同時に思い出深い出来事として記憶されているのは飛騨高山への旅行である。11月の頭、視程に冬を据え、しかしその身は秋に残している飛騨の小京都は美しかった。単に景観が美しかっただけでなく、街の空気と表情が美しかった。鼻から吸い込んだ空気の気温以上の冷たさと、よく澄んだ青空の高さを思い返すだけで今でも涙が出そうになる。あの頃、今と同様に現実的課題を抱えていたはずのぼくは、でも確かに幸福だった—のだと思う。まだ1年も経っていない昨秋があんなにも遠く思えるのは、この1年で自分が驚くほど弱い人間になってしまったからなのかもしれない。

 

外に出れば9月の大阪の空気がぼくを待っている。それは11月の高山と比べれば遥かに暑苦しく、湿り気を帯び、街の喧騒を吸い込んだ空気である。それでも夏の盛りに比べれば幾分柔らかなものになっている。しかし、昨年まで友軍としてぼくのそばにいてくれたはずの秋の空気はそこにはない。彼—或いは彼女は冷静に銃口をこちらに向けている。多分その銃には弾は装填されておらず、引き金を引かれたところでぼくの身に危険はないのだろう。そうとわかっていても、ぼくは常に何かに怯えて生きていかざるを得ないのである。少なくとも、今年の秋は。

 

ゆるやかな下り坂

例えば、歩きスマホなんてしながら美学棟の階段を下っていたせいで、足を踏み外す。そのまま階段を転げ落ちてしまい、命を落とす。

そんなふうに、死んでしまいたいと思った。

 

春というのは往々にして早く過ぎ去るものだが、今年の四月は少し違った。なぜか、例年よりもゆっくりとした時間が流れているように思えた。別に、良い意味ではない。退屈な毎日をダラダラと送っているせいだ。

 

「退屈な毎日」の前に「変わり映えのしない」という形容詞を補おうとしたのだが、それはやめた。変化自体はあるのだ。研究室を巣立つ人も、研究室に新しくやってくる人も、それなりに多い年度ではあった。その中で、一番の友人が就職したり、指導教員が退官したりと失うものが多かったのは痛手だった。変化は悪いことではないのだが……

 

それ故、変化はあっても退屈なのだ。楽しみや張り合いを失った、弛緩した毎日は、よく言えば平穏である。ただ、少しずつ酸素を減らされているような、緩やかな息苦しさを感じるのもまた事実である。その中でもタスクはこなさねばならない。事務的な手続き(これがぼくはひどく苦手なのだ)とか、研究関係のあれこれとか、お金の工面とか。そんな中で、このまま死んでしまったらどんなに楽なんだろう……と思ったのだ。

 

とある申請書をなんとか書き上げると日付を跨いでいた。そこから一時間半、なんとなくだるくて立ち上がれなかった。帰ることすら面倒になったのだ。ようやっと立ち上がり、戸締まりやらポットの電源やらを確認しながら思う。このまま美学棟の四階から飛び降りたら面白いだろうか— 階段を踏み外してそのまま動かなくなったら楽だろうか—いや— 結局ぼくは臆病なので生きながらえた。深夜二時を回っていた。

 

腹が減った。少し回り道だが、国道沿いの松屋に寄ることにした。最近値上げしたとはいえ、安価な飯である。それでも自らの懐事情を気にしながら飯を選ばざるを得ない。湯水の如く使える金さえあれば、少しは心は楽になるだろうに。

牛飯を一口、また一口と食べる。店内放送では流行歌が流れている。涙がぽろぽろと落ちる。あれ、なんでぼく松屋食いながら泣いてんだろう…… 案外、これが最後の食事になることもあるのかもなあ、なんて考える。笑ってしまう。例えばここでぼくが生きることを諦めたとしたら、GWの帰省の切符も取ってあるし、来月のコンサートの予約もしてあることを他の人は奇妙に思うのだろうか。しかし人間は割と簡単に、衝動的に妙な行動に出るものなのだろう。

 

店内で流れていた曲をApple Musicで探し、帰路で聴いてみた。深夜三時。イヤホンから流れる軽快なリズムと哀愁のあるボーカルとともに阪急の線路沿いを歩くと、こんなしょうもないぼくでも何かの主人公になれる気がした。もちろん、気がするだけだ。どうせぼくは、どん底へと向かうゆるやかな下り坂をゆっくりと歩いているのだから。

春過ぐ

こんなはずじゃあ、なかったんだけどなあ……と、それっぽい台詞を吐いてみる。
時刻は夜七時半過ぎ。過ぎ行く春の夜、今日もぼくは何も生み出せずに一日を終える。

たぶん、こんな毎日を死ぬまで続けて、何者にもなれないまま終わるのだろう。

自室に―見るのが厭になるほど汚い六畳間に―いても何ら生産性のある活動もできないので、今日も研究室に来た。やることはたくさんあるのだ。研究費応募の書類を書いて、投稿するつもりの論文のアイディアを少し練って、来月に控えた発表の構想をして― ラップトップに向かいながらあれこれしたはずなのに、何もしていないような気分になる。目に見える成果物がないということはなかなかに辛い。
今日はゼミの日だ。研究室は一週間でいちばんの賑わいを見せる。先輩も同輩も後輩もみんなぼくより優秀で、活力に満ち、人生を謳歌しているように見える。隣の芝生は青いものだし、人には人の地獄があるものだとは思うが、この場合重要なのはあくまでぼくの主観である。皆に活力を吸われ、干からびてしまいそうになる。

こんなはずじゃあ、なかったのだ。

毎朝七時くらいに起きているはずだった。毎日一本くらいは新しい論文を読んでいるはずだった。継続して語学の勉強に励んでいるはずだった。毎晩十一時くらいには床に就いているはずだった。学会発表や論文投稿も積極的にしているはずだった。週に二回くらいは「行きつけの喫茶店」に行っているはずだった。週末には友人と遊んだり食事したりするはずだった―いろいろな方面から理想と現実に押しつぶされ、パンクしそうな自分がいることに気づかされる。すべては自分が何もしていなかったことがいけないのに。

もちろんやりたい研究はあるし、一次資料を調査したり関連文献を読んだりして自らの論を立てる作業は大変だ楽しいとも思う。それでも余裕をなくした心身は疲弊しているし、その苦痛は楽しみを上回ってしまうのだ。

それだから今日も独り言つのだ。
こんなはずじゃあ、なかったんだけどなあ、と。

中欧歴史的新聞/雑誌データベース・アーカイブ等(β版)

ドイツ、オーストリア、スイス、チェコ等の新聞/雑誌のデータベース・アーカイブ等の覚書のようなものです。自分が修論を書く際、そもそもどこにどんなデータベースがあり、何が見られるのかの情報があまりなくなかなか苦戦したので、新聞/雑誌を一時資料として研究をする学部生や修士の院生が一人でも救われたらいいな……と勝手に思ってまとめました。
一部重複(より大きなデータベースで個別のデータベースが検索・閲覧可能な場合があるため)があります。
随時更新します。

ドイツ

  • ベルリン州立図書館 Liste der digitalisierten Zeitungen - ZEFYS
    • 場所:ベルリン等
    • 主な閲覧可能な新聞・雑誌:Berliner Tageblatt、Berliner Börsen Zeitung、Deutsche Allgemeine Zeitung等
    • ドイツ・デジタル図書館からも閲覧可能。全文検索はできないが、ドイツ・デジタル図書館から検索可能なのでそちらを使うべき。
  • MARCHIVUM 出版デジタル MARCHIVUM Druckschriften Digital
    • 主な閲覧可能な新聞・雑誌:Neuen Mannheimer Zeitung等
    • マンハイムの新聞を検索・閲覧可能。ドイツ・デジタル図書館からもアクセスできる。

オーストリア

スイス

  • チューリヒ工科大学―E-Periodica E-Periodica
    • 主な閲覧可能な新聞・雑誌:Das Werk等
    • 建築系雑誌を中心に多くの雑誌を閲覧できる。本文検索可能。
  • e-newspaperarchives.ch e-newspaperarchives.ch
    • 主な閲覧可能な新聞・雑誌:Neue Zürcher Nachrichten、Neue Zürcher Zeitung(以上チューリヒ)、Der Bund(ベルン)等
    • スイスで発行された新聞を網羅的に閲覧できる。全文検索可能。

チェコ/チェコスロヴァキア

  • Lidové noviny アーカイブ Archiv Lidové noviny
    • 主な閲覧可能な新聞・雑誌:Lidové noviny
    • チェコ(および旧チェコスロヴァキア)の有力紙Lidové novinyのアーカイブ全文検索機能もあるが、少なくとも1920-30年代の新聞には対応していなかった。ちなみに上記kramerius 5はLidové novinyをデータに含み、全文検査も可能なものの、内容の閲覧ができない。しかし発行年月日はわかるので、これを控えてLidové novinyのデータベースで目当ての年月日の紙面にアクセスする、という合わせ技が使える。

ポーランド(シレジア)

難儀

多くの知人が参加しているオーケストラの演奏会を聴きに行った。

その帰り、僕は死にたい気持ちになった。演奏が悪かったのではない。むしろ、大変素晴らしいものだった。高い精度まで洗練されたアンサンブル、個々の技術、熱量、どれをとってもアマチュア・オーケストラに望み得る最高水準だったと思う。だからこそ、僕は死にたいと思ったのだ。

 

演奏会の一曲目が始まった途端「これはまずい」と思った。編成の小ささをものともしない厚みのあるサウンドに悔しさを覚えた。舞台の上には見知った顔が沢山いる。そんな彼ら、いい音楽を奏でる彼ら、ステージで輝く彼らを見るのはあまりに眩しく、耐え難かった。それで僕は今日一度も舞台を直視できなかった。膝の上に乗った帽子を見つめながら演奏を聴く。泣きそうなくらい精緻なアンサンブルだ。最近の自分の演奏がお粗末に思えてくる。だんだんと自分の呼吸が荒くなるのがわかる。早くここから逃げてしまいたい。もう音楽なんてやめてしまいたい。こんな思いをしたのは初めてだ。

 

演奏会後、僕は足早にホールを離れた。知り合いに出くわしてしまえば気が狂ってしまいそうだったのだ。多分僕はああいう演奏はできないだろうし、彼らと共に舞台に上がることもできないのだろう。その悔しさと、無念と、失意を抱えて駅までの道を歩いた。

近くの公園で子どもたちが遊んでいた。老夫婦がベンチで歓談していた。中学生が笑いながら自転車を漕いでいた。どこまでも春だった。

……これだから、春は嫌いなのだ。