遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

情報の渦に対峙する(修論日記 6日目)

高校生の頃、バーンスタインの『キャンディード』序曲を演奏したことがある。楽曲の後半、楽器群ごとに拍子が入り乱れ、それぞれがそれぞれのフレーズを反復し、どんどん混沌としていく箇所がある。タクトを執っていた顧問は、それを「証券取引所のテロップ」と表現した。
当時は特に気に留めていなかったその言葉は、しかし、なぜか事あるごとに様々な作品を形容するために引っ張り出したくなる魅力を持っている。
例えばマルチヌーの交響曲第1番のスケルツォ楽章。妙にうわついた旋律と和音がせわしなく動き回る。その疾走感と緊張感を前にして思い出したのは、例の証券取引所のテロップであった。
あるいはデーブリーンの『ベルリン・アレクサンダー広場』。作中にてモンタージュ的に使われた市井の情報と声の洪水に、不思議と「テロップ」の印象が重なる。
そして僕は今、インターネット上のデータベースを駆使して戦間期ドイツの新聞を漁っている。活版印刷で刷られたフラクトゥールの文字列が放つ情報の数々。国際情勢に経済、ゴシップに芸術、たまに広告。情報の質も政治的姿勢も様々な紙面の数々が孕むエネルギーは、画面越しでもどこか気圧されそうなものがある。必要な情報を拾い、内容を吟味し、それをエクセルファイル上に纏める。地味かつ単純なタスクなだけに、余計に頭がクラクラしそうにもなる。そんな時に脳裏によぎるのは、やはりあの「テロップ」だ。
キリのいいところでコーヒーを淹れる。そうでもしなければやってられない。少しはテロップから逃げる時間も必要だろう。