遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

ゆるやかな下り坂

例えば、歩きスマホなんてしながら美学棟の階段を下っていたせいで、足を踏み外す。そのまま階段を転げ落ちてしまい、命を落とす。

そんなふうに、死んでしまいたいと思った。

 

春というのは往々にして早く過ぎ去るものだが、今年の四月は少し違った。なぜか、例年よりもゆっくりとした時間が流れているように思えた。別に、良い意味ではない。退屈な毎日をダラダラと送っているせいだ。

 

「退屈な毎日」の前に「変わり映えのしない」という形容詞を補おうとしたのだが、それはやめた。変化自体はあるのだ。研究室を巣立つ人も、研究室に新しくやってくる人も、それなりに多い年度ではあった。その中で、一番の友人が就職したり、指導教員が退官したりと失うものが多かったのは痛手だった。変化は悪いことではないのだが……

 

それ故、変化はあっても退屈なのだ。楽しみや張り合いを失った、弛緩した毎日は、よく言えば平穏である。ただ、少しずつ酸素を減らされているような、緩やかな息苦しさを感じるのもまた事実である。その中でもタスクはこなさねばならない。事務的な手続き(これがぼくはひどく苦手なのだ)とか、研究関係のあれこれとか、お金の工面とか。そんな中で、このまま死んでしまったらどんなに楽なんだろう……と思ったのだ。

 

とある申請書をなんとか書き上げると日付を跨いでいた。そこから一時間半、なんとなくだるくて立ち上がれなかった。帰ることすら面倒になったのだ。ようやっと立ち上がり、戸締まりやらポットの電源やらを確認しながら思う。このまま美学棟の四階から飛び降りたら面白いだろうか— 階段を踏み外してそのまま動かなくなったら楽だろうか—いや— 結局ぼくは臆病なので生きながらえた。深夜二時を回っていた。

 

腹が減った。少し回り道だが、国道沿いの松屋に寄ることにした。最近値上げしたとはいえ、安価な飯である。それでも自らの懐事情を気にしながら飯を選ばざるを得ない。湯水の如く使える金さえあれば、少しは心は楽になるだろうに。

牛飯を一口、また一口と食べる。店内放送では流行歌が流れている。涙がぽろぽろと落ちる。あれ、なんでぼく松屋食いながら泣いてんだろう…… 案外、これが最後の食事になることもあるのかもなあ、なんて考える。笑ってしまう。例えばここでぼくが生きることを諦めたとしたら、GWの帰省の切符も取ってあるし、来月のコンサートの予約もしてあることを他の人は奇妙に思うのだろうか。しかし人間は割と簡単に、衝動的に妙な行動に出るものなのだろう。

 

店内で流れていた曲をApple Musicで探し、帰路で聴いてみた。深夜三時。イヤホンから流れる軽快なリズムと哀愁のあるボーカルとともに阪急の線路沿いを歩くと、こんなしょうもないぼくでも何かの主人公になれる気がした。もちろん、気がするだけだ。どうせぼくは、どん底へと向かうゆるやかな下り坂をゆっくりと歩いているのだから。