遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

余裕がないのに余裕なふりをする

四月の末から今日に至るまで、某研究費の申請書を教授に添削してもらっては書き直す毎日を過ごしている。文章を書くこと自体は恐らく苦手ではないのだが、申請書のようなフォーマットを書くのはあまり得意ではないのだと認識した。筋道を通せばいい研究計画はまだマシで、問題は自己PR的な項目である。なんせこの二十数年間テキトーに生きてきたせいで努力したことなど存在しないも同然なのだから。無能な自分に向き合う時間は苦痛だ。なんとか文章を捻り出してみても上手くいかず、もっときちんとした業績があればスラスラかけたんだろうな……と悲しくもなる。
これだけでも忙しいのだが、実はゼミの発表が来週に迫っている。当然研究は進んでいるはずもない。週末でどこまで詰められるのだろう。結局何もわかりませんでした—で終わる未来が見えるのが怖い。

と、まあやることだらけのはずなのに、ぼくはGW中に帰省をした。大阪に残された課題からあたかも逃避するかのように。結論から言えば、故郷は懐かしくはあっても心穏やかに過ごせる場所ではなかった。街はある部分は変化し、ある部分は六年前のままだ。しかし、そこはもはやぼくの居場所ではないのである。昔の通学路を辿ったりもしてみたが、なんとなく心に隙間ができたような気がした。結局、ぼくが一番安心できた場所は駅前のタリーズコーヒーだった。「やばい!何もやってない!」と焦りながら生物基礎の問題集をテスト前日に詰め込んだ。近くの楽器屋で買ったばかりのチャイコフスキー 交響曲第六番「悲愴」のスコアをワクワクしながら展いた。合格発表の前日に、友人に煽られながらコーヒーをがぶ飲みした。そんな思い出のあるタリーズは紛れもなくぼくの青春の一ページである。と同時に、タリーズはどこにでもあるものだった。大学進学後の最寄駅のホームにもあった。それゆえ大阪であっても故郷であっても存在するという、ある種の普遍性を帯びているのだ。だから、故郷の駅前のタリーズは、高校生の頃と変わらずぼくの居場所として機能してくれた。座席を占有する免罪符を得るが如く、コーヒーが空になるとおかわりを注文しに行く。そしてぼくは思い立った。このやるせない気持ちをどうにか文章に書き残そうと。買ったばかりのロルバーンのノートに、青いボールペンで私小説じみたものを書き始める。物語は主人公が帰省のために新大阪駅を出発するところから始まる。彼がぼくのように救いのない人生を歩むのか、それともささやかな幸福を手に入れるのかはぼくも知らない。夕飯時になるまで、ぼくは夢中で物語を綴った。
こうしている間にも、申請書の締め切りや発表は迫っている。

帰省以外にも、やるべきことそっちのけでその他の予定を詰め込んでしまった。
生活費のために新しいバイトを始めた。それはいいのだが、ついうっかり五時間とか、七時間とかの長時間のシフトを入れてしまった。嗚呼、この時間があれば申請書の推敲もできたし、発表準備もできたのに。いつもこうだ。こんなはずではなかったのに。もうちょっと器用に生きていくつもりだったのに。
申請書の締め切りは明後日、発表は来週だ。それなのに今日、ぼくは演奏会のために名古屋まで往復した。アホだと思う。そんなことをしてる場合ではない。現実から逃げて逃げて、逃げまくった先には何があるというのだろう。夜十時半頃、大阪に帰り着く。すっかりお馴染みになった大阪駅の大天井や長いエスカレーター、開放感のある駅ビルとグランフロント大阪。連絡橋口から見下ろす、垢抜けたキタの玄関口がぼくは大好きだった。これと言ったランドマークはなくとも、総体として清潔感と賑わいと品を持ち合わせた魅力的な都市の入口として機能しているからだ。しかし、今日の大阪はなんだか不安気だった。それは五月にしては冷たい夜風のせいなのだろうか。
家に帰れば、パソコンのハードディスクドライブの中に眠った現実が待っている。阪急電車の中だけでも、それを忘れることを赦してほしい。