遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

まだ生きている(修論日記 2日目)

ことしの「あいち2022」では河原温の作品《I Am Still Alive》が象徴的に用いられている。この作品をはじめ、河原温は単純な「記録」を表現手段とした作品を多く残している。それと多少は関係するのだろう、今回の「あいち2022」には「記憶」を作品の重要な一部分とした作品が多かったように思える。特に常滑会場の展示は、全体として場と記憶とがうまく結びついた作品が多く、非常に興味深かった次第。

さて、記録と記憶が似て非なるものであることは言うまでもない。前者は忘れないようにつけておくもの、後者は否が応でも頭に残っているもの、といったところか。例えばぼくがいま手帳に「2022年10月9日(日) 午後13時18分、北九州市 天気:曇り」と書いたら、それはたぶん記録の域に属することについては、多くの人が首肯するだろう。それに続けて「午前中、北九州市立美術館に足を運んだ」と書いたらどうだろうか。まだこれも客観的な記録と言えるかもしれない。ぼくはこう続ける。「コレクション展を鑑賞した。モネやバスキアらの絵画に続いてアルマンの立体作品が並べられている」—これはつい数時間前の出来事であるし、間違ったことは書かれていない。しかし、情報の取捨選択が行われていることも確かなのである。はじめの展示室には「モネやバスキア」以外にも、ドガルノワール、ルオー、ザカニッチの作品が存在した。なぜ2名のみの名前を挙げたのか。その要因として記憶に頼る部分があるとすれば—例えば他の作品の印象が薄かったとか、作家名を忘れていたとか—、この一文は記録と記憶との中間にあるのではなかろうか。さらに一文戻ってみれば、なぜ泊まったホテルのことや朝食を摂ったドトールコーヒーのことは記述されていないのかも問いたくなる。なんなら書き出しについても、「北九州市」以上の位置情報はごっそり抜けている。そう考えると、こと人間が残したものについて記録と記憶とを分けて考えようとすると、それは意外と難しい話なのかもしれない。

おまけ程度に研究の話。昨日リストアップした論文をいくつか流し読みした。使えそうな材料はあるが、裏付けが必要なものが多い。その作業が冬までに間に合うかは怪しい。出先で論文を読むのにはスマートフォンを使うほかないのだが、これは想像するまでもなく読みにくい。論文リーダーとしてiPadが欲しい。心の底からそう思った。そういえばゼミ発表は来月頭なので時間がない。大阪に帰れば忙しくなる……