遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

小説を書こうとしていた

昨年の秋のことである。提出まで三ヶ月を切った修士論文そっちのけで、私は原稿用紙に向かっていた。

小説を、書こうとしていた。

私の部屋には、書きかけの原稿が残っている。結局四百字詰め原稿用紙二十二枚分しか進まなかったのだが、その頭には小説の構成というか、青写真のようなメモがつけてある。

この小説は『虚空』という題がつけられている。格好をつけたかったのだろう、Le vide/Prázdnota/Das Leereと何故か三言語で題の訳までつけてある。この下には「七部から成る交響的小説・全てはフィクションである」と、サムい説明がつけてある。一応これには発想源がある。私が敬愛する或る小説家が七部構成の小説に拘っており、かつ自作の章について「アンダンテ」や「アダージョ」、「アレグロ」と云った音楽用語を用いて説明していたのだ。それを形式上真似したのだ—噫!なんてスノッブなんだ!

『虚空』の章立ては、以下のようになっている。

Ⅰ. 錯覚

Ⅱ. 追想の日(or 告別)

Ⅲ. 文字の羅列、あるいは情報の海

Ⅳ. 年暮る

Ⅴ. 紙束

Ⅵ. 窓(or 執行猶予)

Ⅶ. とある日の饗宴

 

どの章でどんなことを書こうとしていたのかはかなり鮮明に覚えているのだが、それを綴るとあまりに恥ずかしいのでやめておく。ただ、簡単にいえば学部二回生頃から修士二年までの様々な体験を散りばめ、それを修士論文執筆の過程に乗せて再構成するような計画だったとだけ言っておく。そして、これはあくまでフィクションであって、私小説的ではあっても体験談ではない。

 

この中断した小説、そして多分再開することのない小説をおよそ一年ぶりに思い出したのは、たぶんブラームスのピアノ四重奏曲第三番のフィナーレを聴いたからだと思う。私は、ついに到達することのなかった『虚空』の第七章(最終章)において、「教授の退官記念パーティ」と「とある読書会」(これは結局実現しなかった)という、性格の異なる二つの饗宴を、非常に"せわしい"文章によって描こうとしていた。今年、九月の半ばに、何の気なしにブラームスのOp. 60の最終楽章聴いた時、一文字も書いていない第七章は"こう"なるはずだったのかもしれない、などと思った。前奏なしでいきなり第一主題がアレグロ・コモドのテンポで現れる—運命動機に始まるせわしないピアノを伴って。私はこの秋、この曲を何度も何度も聴いている。きっと、明日も明後日もそうするのだろう。

 

このピアノ四重奏曲は、何やら色々なエピソード(その中には真実もあれば虚構もあるのだろう)の故にウェルテル四重奏曲と呼ばれている。私はそれを知らずにこの曲を聴き始めたのだが、今にして思えば何だかそれすら示唆的に思えてきた。