遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

たまにはゆっくり歩けばよいものを

 何をするわけでもなく日付が変わった。ぼくは基本的に家で生産的な活動を行うのが苦手で、これに関しては半分諦めている。では寝ればよいではないか、という話なのだがこれもできない。あと2時間もしたら新聞配達店に出かけ、原付を相棒としてこの国のジャーナリズムをちょいと支えてやらねばならないのだ。
 要するに、何もできないし何もしたくなかった。
 寝っ転がって内容のわかりきった文章を読むくらいなら労力を必要としない、そう考えて自分の卒業論文を手に取った。5ヶ月前に完成させた、ぼくの学部時代の集大成。
 もっと深い議論ができたとか、ここはもう少し込み入っているとか、今だから思う点はいくつもある。しかし、それ以上に思ったのは「果たしてこの時ぼくはどれほど文献を深く読み、資料を調べていたのだろうか」ということである。みてくれはきちんとしているのだ。註釈は適切だと思うし、独語の翻訳もかなり頑張ったと思う。しかし、それらの作業の大半は最後の1, 2ヶ月、かなり追い込まれた状態で行われたものであり、期限がなければきっと書き上げることすらままならなかったのだと思う。
 仮にも大学院に進学する予定の学生がこれではかなりまずいのだが、しかしまだ学部生である。この生き方でも一般的には許されるのだと思う。

 修士課程の学生となって6ヶ月が経つ。ぼくは何をしたのだろう。自ら望んで進んだはずの大学院なのにろくに文献も読まず、資料も探さず、怠惰な生活を極めている。先日、研究室の同期のゼミ発表があった。まだ手探りだと言いながら新しいテーマを掘り下げ、きちんと先行研究をまとめ、今後の展開を示していた。レジュメの最後には多数の参考文献・資料が上がっている。しかし、彼はこれ以上の文献と資料を探し、読み、その上で発表に使うものだけを挙げているのである。思えば、人文学の研究というのはそういうものではないか。ある山頂に辿り着くには、まず幾つかのルートを検討せねばならないし、だめなら他のルートを考えねばならないだろう。業績は山頂へと到達した一つのルートであり、その裏には当然数多くの試行錯誤がある。
 その「当然」を、ぼくはしていない。

 20年以上生きていると、周囲の人間の変化に驚かされる。同期の大半が就職した。少し歳の離れただけの先輩が入籍した。大学院へ進んだ同期たちも日夜研究に励んでいる。ちょっと前までぼくと同じような、活力的で、怠惰で、短く、そしてほろ苦い大学生活を送っていた人々は他の場所へと行ってしまった。ぼくはどうか。なんの義務も果たさず、自己を律することもなく、時間を浪費しているだけではないか。ダラダラと過ごした時間でどれだけの文献を読めただろう?どれだけ外国語を勉強できただろう?身銭を切って買った高い研究書はもっと役に立てられたはずだ。机に横たわる独和辞典をもっと引けたはずだ。先週習った分のロシア語の単語をちょっとずつでも覚えられたはずだ。そう気づくのは物事がまずい事態になってからなのだ。


 毎日配達店に早く着きすぎてしまい、多少の暇を持て余す。こんな場合だけ余裕を持って行動できるのだ。他のところで緩んだ暮らしを引き締める代わりに、こんな時くらいたまにはゆっくり歩けばよいものを—そう笑いながら今日も新聞を100部数え出すのだった。