遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

考える葦(院試日記 12日目)

パスカルは「人間の不幸は、どれも人間が部屋でじっとしていられないために起こる」というようなことを述べている。それ故愚かな人間は退屈を紛らわすために気晴らしをし、しかしその中に幸福があると思いこんでいる—と。

ぼくごときがパスカルの思想を正しく理解できているとはとても思えないが、少なくとも愚かな人間であるぼくは部屋でじっとしていざるを得ない昨今、気晴らしを欲していることは確かである。

 

こう、気晴らしもなく内側に籠っていると心が繊細になっていくのだろうか、自分と全然関係のない人の言動1つ1つに心が痛くなる。言っていることは間違っていないのだろうが言い方がひどかったり、自分の苦手なものをこき降ろすことで満足していたり、みんな大変なんだなあと思わずにはいられない。かくいう自分は他人の言動のみならず自分の言葉にも必要以上に気を遣うようになってしまい、最近何か意見を―特に極端なものを―言おうとすると自己矛盾しそうなのが怖くて思ったことの半分も表明できていない。極端な意見というのは言っているときは自分に酔えるし魅力的に響くものだが、まあだいたい穴があると思っておいたほうがいいものだ。

 

中学のある国語の教師は「一般化は危険だ」という言葉を教えてくれた。

高校のある政治経済の教師は初めの授業で「自分はあくまで政治的に中立な立場で教えることを努力する」と明言した。

大学のある教授は「すべての美術作品は灰色で、誠実な研究者ほど真作か贋作かはっきりさせることを避ける」と言った。

思うに、この世の中においては白黒はっきりしたことは殆どないのだと思う。いろいろ思うとき、一歩立ち止まって考えるだけで社会はよりよくなるのかもしれないなあ…と考えた。

 

今日の記録

独語予習 1.5h

研究関係 1.5h

美術史予習 1h

計 4h