遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』

北欧のある現代美術館に《ザ・スクエア》なる現代アートが展示される。それは四角く囲われた領域を設定し、その中では誰もが等しく扱われるという説明書きをもつ社会の格差や貧困への問題提起を孕んだ作品であった。

ザ・スクエア》のキュレーションを担当したキュレーター、クリスティアンはある日財布と携帯を盗まれる。彼は奪還と報復のために《ザ・スクエア》の意図とは正反対の行動を開始する。さらに《ザ・スクエア》の宣伝広告が予想以上の反響を呼び、クリスティアンはその対応にも追われることになる—

 

映画『ザ・スクエア 思いやりの聖域』はそんな映画である。

撮影が行われたのはスウェーデン。高い福祉や教育水準を誇る北欧の王国というイメージであるが、映画の中では格差構造がくっきりと描かれる。主人公のクリスティアンは社会的テーマを持ったアートの趣旨について、「上流階級」相手に演説をぶつ。その一方で物乞いの声には見向きもしない。盗まれた携帯を取り返すために彼は強引な手段を取り、結果として無関係の第三者を巻き込むのだが、その人物に対しても冷たくあしらう。

舞台は一応スウェーデンなのだろうが、作中では架空の国家となっており、この映画は決して特定の地域や人物のみに当てはまるものではないことを物語る。建前では格差を無くそう、貧困に手を差し伸べようと言っても行動が伴わないのはどこの国でも誰でも同じことであろう。ぼくだってそうだ。綺麗事を言ってみても多くの人は駅前でTHE BIG ISSUEを売る人や古ぼけたジャンパーと汚れた髪で電車に乗る人を冷たく見てしまう。この映画を見るといかに自分が結局自分本意かを痛感させられるのである。

 

映画の中にはそうしたポイントがいくつかある。

冒頭、《ザ・スクエア》の趣旨を華々しいレセプションで説明するシーン。集まった人々はアートの説明よりもパーティーの食事ばかりを気にするのが滑稽である。

クリスティアンの職業であるキュレーターは日本の学芸員とは違い、専門性の高い高待遇の花形職である。彼の身に付けるファッションや運転する電気自動車などのアイテムも富裕層の印象を補強する。そのスタイリッシュな要素とミスマッチなシーンが終盤に現れるのが強烈である。

ミスマッチというと途中、パーティの場面で登場するパフォーマー、「モンキーマン」もそうだろう。規律とか社交とか、そう言ったものを破って安心している人々をハッとさせるモンキーマン。胡座をかいていると痛い目に遭う…とでも言っているのだろうか?そう考えると、そもそもこの映画自体モンキーマンなのかもしれない。

一方、デパートでクリスティアンがホームレスに荷物番を頼むシーンがある。これは今まで散々見て見ぬふりをして来たのに都合の良い時だけ利用する傲慢さも感じるが、同時にクリスティアンがそうした立場の人を初めて信用したシーンであり救いも感じるのである。

 

見終わった後でもすっきりとはしない。ハッピーエンドとかバッドエンドとか、そう言ったところに落ち着かないことと含めてインパクトの強い映画であった。

 

この映画は2017年のカンヌ国際映画祭パルム・ドールである。そういえば2019年は『パラサイト 半地下の家族』、2018年は『万引き家族』がパルム・ドールを受賞しており、三年続いて現代社会の格差構造を指摘する作品を煌びやかな映画界が評価するというのもなかなか面白いといえば面白いのかもしれない。