遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

「正しい」イコノクラスム?

英国・ブリストルで奴隷商人の銅像が引き倒されたニュースは我が国でも大きく取り上げられた。その動きはトマス・ジェファーソン像やジョージ・ワシントン像などに対しても広がり、放火や落書きの対象となっている。

 

肌の色による差別は許してはならないことであるが、像を傷つける行為が果たして許されるのかは賛否両論が見られた。

Twitterなどでは「像を引き倒すのは奴隷貿易の歴史を無かったことにすることであり根本的な解決にはならない」という意見が多いように思える。これについては概ねぼくも同意する。しかし、同じ像であっても、1991年に引き倒されたレーニン像や2003年に引き倒されたサダム・フセイン像を前にしたらそうは思わなかったのではないか、とも思うのである。もちろん像に付与された意味はそれぞれ異なるし、レーニンサダム・フセインの像を引き倒すことは独裁者あるいは独裁政治を民衆が倒したというイメージが重ねられているので同一視は出来ないだろう。ただ、像自体が担う歴史があるのは同じといえよう。一方が許され、一方が許されないのなら何が異なるのか。美術史という、視覚メディアを扱う学徒の端くれとして考えてみたい。その際、その対象は像のみならず美術品も含んでいることをお許し願いたい。

 

宗教的理由を伴う像の破壊は昔から行われてきた。それはイコノクラスム(聖像破壊)と呼ばれ、厳格なキリスト教東ローマ帝国プロテスタント)やイスラームと言った偶像崇拝を禁止する宗教・宗派の者によって行われた。現代的観点から見れば非難されるのは当然なこの行為は、しかし当事者からしたら正義に基づくものだったことも事実なのである。宗教的であれ政治的であれその他の主義主張によるものであれ、像を破壊する行為には大体何らかの正義や理由や根拠があり、それは実行者にとっては「正しい」ことである。言ってしまえば廃仏毀釈文化大革命による古美術品の破壊も、バーミヤンの石仏の破壊も、今見れば許されないことだが当時の当事者にとっては正しかったのだろう。問題はその正しさが今の時代・後の時代において前向きな意義を持ちうるか否かなのではないか、と思う。

 

奴隷商人の銅像が引き倒されたように、あるカテゴリの人々への差別への抗議として損傷を受けたものにベラスケス《鏡のヴィーナス》(ロンドン・ナショナルギャラリー)がある。1914年、婦人参政権を求める女性によってナイフで傷がつけられたのだ。多くの人にとってこの行為は許されないもの、と映ると思われる。それはこの作品が「美術品としての価値」が高いからであろう。そう考えると、先の奴隷商人の銅像が名のある彫刻家の手によるものだったならばもっと非難されていたのかもしれない、と思わずにはいられない。あるいは、後々この像が美術史的に又は考古学的に価値があると認められたならその際は引き倒した行為は糾弾されることになろう。価値は時代とともに変わるものである以上、この観点で線引きはできない。

 

以上、ぼくの考えとしてはあらゆる類の像は破壊されるべきではない。1つ例外ができてしまえばあらゆるイコノクラスム(聖像に限らず、広義の)を正当化する前例になってしまう。その代わり、扱い方によって教訓を残すべきであろう。独裁者や奴隷商人の像は「負の遺産」になりうる。過去に起こったことは覆せない以上、100年後、1000年後の人類がかつての出来事を顧みる際の材料とすることが今の我々にできることであろう。