遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

チェコフィルの《我が祖国》で辿るチェコ(チェコスロヴァキア)史

アール・ヌーヴォーの旗手として名高いチェコ生まれの画家・デザイナー、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)は《チェコ音楽の殿堂》という絵を残している。

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アルフォンス・ムハ《チェコ音楽の殿堂》1929、 977×1229mm、油彩、個人蔵

ベドジフ・スメタナは中央に座し、まっすぐと前を見据えている。その脇にはアントニン・ドヴォジャークが寄り添う。その他ははっきりとしないが、チェコ国歌《我が家は何処や》を作曲したフランティシェク・シュクロウプやズデニェク・フィビフなどの作曲家らが描きこまれているものと思われる。

 

少年時代、聖歌隊に所属していたムハは音楽への造詣も深かったのだろう。1905年。既にパリで大きな成果を収めていた彼は、渡米中の船内で読んだチェコの歴史家アロイス・イラーセクの『すべてに抗して』をきっかけにスラブ民族の歴史を題材にした作品を描きたいという野望を抱く*1。その意欲は1908年秋、ボストン交響楽団のコンサートでスメタナの連作交響詩《我が祖国》を聴いた*2ことでより高まった。1911年に着手されたその作品—全20点からなる《スラブ叙事詩》が一応の完成を見たのは1928年のこと。第一次世界大戦の開戦(1914)と終戦(1918)、それに伴うハプスブルク君主国の崩壊とチェコスロヴァキア独立といった状況の中、この絵画は描かれたのである。

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アルフォンス・ムハ《原故郷のスラブ民族》1912、6100×810mm、テンペラ・油彩、プラハ市立美術館

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アルフォンス・ムハ《ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス氏》1916、6100×810mm、テンペラ・油彩、プラハ市立美術館

 

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アルフォンス・ムハ《スラブ民族の賛歌》1926、4800×4050mm、テンペラ・油彩、プラハ市立美術館

 

ハプスブルク君主国の終焉とチェコスロヴァキアの独立

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ヴァーツラフ・タリフとチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1919)

ハプスブルク君主国から独立を勝ち取った新生の共和国に託した絵画がおおよそ完成した*3その年、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団は初めてのレコーディング*4を遺している。その曲こそが《我が祖国》であった。タクトを執ったヴァーツラフ・タリフ(ターリヒ)は1903年にアルトゥル・ニキシュの推薦でベルリン・フィルコンサートマスターとなるが、彼の指揮するリハーサルの時に指揮者になることを決心した*5という。

 

ヴァーツラフ・タリフ/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1928)

タリフ46歳の録音である。音質はもとより弦のポルタメントなどにも時代を感じさせるが、演奏内容はなるほど充実している。快活に前進するテンポ、伸びやかな音色はなかなかのもの。

ポルタメントも「ヴルタヴァ」の川の精のシーン、「シャールカ」のシャールカとツチラトのシーンなどでは妖艶さを演出する一要素となっている。

 

チェコスロヴァキア解体

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ボヘミアモラヴィア保護領時代のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団

1932年、隣国ドイツでナチ党が政権を獲得する。1938年にオーストリアを併合したナチス・ドイツの野心はチェコスロヴァキアへと向けられる。チェコスロヴァキアズデーテン地方にドイツ系住民を抱えており、ナチはこれを重要な駒として利用した*6。そして1939年、チェコスロヴァキアは解体される。チェコベーメン・メーレン保護領としてドイツの支配下に置かれ、スロヴァキアは「スロヴァキア共和国(スロヴァキア独立国とも)」という名のドイツの傀儡国となった*7。しかし、ナチス・ドイツ支配下プラハにおいても《我が祖国》は演奏されている。

 

ヴァーツラフ・タリフ/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1939)

ライブ録音。演奏後、万雷の拍手の中チェコ国歌《我が家は何処や》が自然発生的に歌われ始め、やがて大合唱となる。チェコスロヴァキアという祖国を失った直後の人々が《我が祖国》に、《我が家は何処や》に託した思いを考えると単なる歴史の1ページ以上の重みを感じる録音である。

 

終戦、そして社会主義クーデター

戦争は終わった。再びチェコスロヴァキアとして歩み出した共和国は共産党のクーデターによって事実上の社会主義国となる。1948年のことである。このときチェコフィルの首席指揮者であったラファエル・クーべリックは英国へ亡命してしまう。

 

カレル・シェイナ/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1950)

カレル・シェイナは長らくチェコフィルの副指揮者を務めた指揮者。クーベリックが亡命した後空席となった首席指揮者の座は一時的に彼が穴埋めすることになる*8。演奏内容はオーソドックスながらも随所に熱を感じる快演といえる。

 

束の間の「春」

2年間の首席指揮者の不在ののち、その座にはプラハ放送交響楽団の指揮者であったカレル・アンチェルが就くことになる。彼の徹底した指導の下、チェコフィルはさらなる飛躍を遂げる。

 

カレル・アンチェル/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1963)

引き締まった空気と熱さの双方を持ち合わせている名演。「ヴルタヴァ」の聖ヤンの急流からフィナーレの高揚感は格別だし、「ヴィシェフラト」や「ボヘミアの森と草原から」の穏やかな緩徐部でも決して隙は見せない。数ある《我が祖国》の中でも一番に名前をあげたい程お気に入りの演奏。

 

1968年、チェコスロヴァキア共産党第一書記に就任したアレクサンドル・ドゥプチェクは「人間の顔をした社会主義」と称し、自由化を遂行する。所謂「プラハの春」である。この年の「プラハの春音楽祭」(同名なので若干ややこしいが)はそんな中で行われた。

 

カレル・アンチェル/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1968)

プラハの春」の年のプラハの春音楽祭オープニングである。無駄のない、それでいて熱のこもった演奏と言える。やや危うい箇所もあるがそれもライブならでは。

 

しかし「春」は長くは続かなかった。同年8月20日ソヴィエト連邦率いるワルシャワ条約機構軍はチェコスロヴァキアに侵攻したのち同国を占領。チェコスロヴァキアは「正常化」を余儀なくされる。そしてアメリカに演奏旅行中だったアンチェルはそのまま亡命してしまう。

 

社会主義政権の下で

アンチェルに代わりチェコフィルのシェフの座に就いたのは、当時ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団音楽監督であったヴァーツラフ・ノイマンだった。ノイマンはツアーやスプラフォンのレコーディング、ラジオやテレビでの放送を精力的に行い、*9チェコフィルは世界的な名声を得るのである。

 

ヴァーツラフ・ノイマン/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1975)

ノイマンらしい、堅実にして精緻な演奏である。奇を衒うことはしないが細部を上品に仕上げる姿勢には好感が持てる。曲の良さを引き出した演奏と言える。

ノイマンの《我が祖国》の中でも気に入っている盤。

 

またヴァーツラフ・スメターチェクも派手ではないが優れた演奏を残している。

 

ヴァーツラフ・スメターチェク/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1980)

プラハ交響楽団の指揮者であったスメターチェクだが、《我が祖国》の録音はこれしかないようだ。真摯に曲に向き合うアプローチによる隙のなさが垣間見える。いぶし銀、とでも言いたくなるような魅力がある演奏。

 

遅れてきた「春」〜ビロード革命

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ラファエル・クーベリックチェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1990)

ゴルバチョフによる「ペレストロイカ」、ポーランドハンガリーでの共産主義放棄、汎ヨーロッパピクニック、そしてベルリンの壁崩壊。東側諸国での自由化の波はチェコスロヴァキアにも波及する。1989年11月以降民主化勢力はゼネストやデモを繰り返し*10、体制側は話し合いによる解決を模索するようになる。そして民主化を約束するに至るのである。

この時ノイマン民主化勢力側に立ち、学生らのために《我が祖国》やドヴォジャークの《スターバト・マーテル》、学生歌《ガウデアムス》を演奏した*11という。

 

翌1990年5月。民主化後はじめてのプラハの春音楽祭のオープニングで指揮台に立ったのはラファエル・クーベリックであった。チェコフィルを振るのは、そして祖国に帰るのは実に42年ぶり*12だった。

 

ラファエル・クーベリック/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1990)

この演奏のモニュメント的性格だけで感動できてしまいそうなのだが、大変充実した演奏である。ライブ故「ヴルタヴァ」や「シャールカ」等でアンサンブルが危うい箇所もあるがそれもまた一興。「シャールカ」のクラリネットソロは大健闘しているしダイナミクスやテンポにも結構拘っていたりと、単なる歴史的価値以上のものがある。

 

「離婚」とそれから

チェコスロヴァキアでは民主化以前からチェコとスロヴァキア間の対立が問題となっていた*13。このことは国名にハイフンを入れるかどうかを巡る論争(ハイフン戦争)によく表れている。

結局、チェコスロヴァキア(1990年以後は「チェコおよびスロヴァキア共和国」)は1992年12月31日をもって連邦制を解消、別々の共和国として歩むことになる。「離婚」後の両国間関係は良好だという。

さて民主化と連邦解消後、チェコフィルもまた新たな展開を見せているように思える。

 

1997年にはおそらくチェコ人以外ではじめて、小林研一郎チェコフィルと《我が祖国》の録音を残している。

 

小林研一郎/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1997)

コバケンの指揮は評価、或いは好き嫌いが分かれる傾向にあるようだ。しかし《我が祖国》に限って言えばその個性は良い方向に働いているように思える。「シャールカ」や「ターボル」、「ブラニーク」の強奏のエネルギーには脱帽。かなり好きな演奏である。

 

そして2002年には小林研一郎プラハの春音楽祭のオープニングに東洋人としてはじめて指揮台に立つことになる。

 

また、ノイマンの跡を継ぎ、2012年には再びチェコフィルのシェフとして帰ってきたイジー・ビェロフラーヴェクも貫禄ある好演を残している。

 

ジー・ビェロフラーヴェク/チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(2014)

《我が祖国》を何度も演奏してきた指揮者とオーケストラなだけなことはある、淀みなく流れる音楽はとても心地よく聴くことができる。この曲は極端な味付けはしなくとも十分に堪能できるということを示してくれる演奏である。

 

2017年、ビェロフラーヴェクの急逝は衝撃的なものであった。突如シェフを失ったチェコフィルのこれからが少々心配になったものだが、新たに音楽監督となったセミヨン・ビシュコフとのコンビは評価も高いようで一安心である。来日公演の折には《我が祖国》を演奏している*14が現時点での録音はない。《我が祖国》でなくとも、ビシュコフ/チェコフィルの演奏は一度聴いてみたいものである。また首席客演指揮者にはトマシュ・ネトピルとヤクブ・フルシャという2人のチェコの俊英を迎えた。激動の20世紀チェコとともに歩んできたチェコフィル。今後とも目が離せないオーケストラである。

 

*1:ミュシャ展』、国立新美術館、2017年、232頁。

*2:ボストン交響楽団アーカイブより、1908-09シーズンを参照したところ少なくとも10月に「ヴルタヴァ」の演奏を行なっている。https://cdm15982.contentdm.oclc.org/digital/collection/PROG/id/99633

*3:正確には《スラブ叙事詩》は未完成である。《スラブ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い》は一部人物のディティールが描きこまれておらず、1928年の展覧会でもこの作品のみが展示されなかった。

*4:ヴァツラフ・ターリッヒ指揮/チェコ・フィル スメタナ:我が祖国(全曲)、opus蔵 OPK2075ブックレット(山崎浩太郎)

*5:安田和信「ヴァーツラフ・ターリヒ」、200CD指揮者とオーケストラ編纂委員会編『200CD指揮者とオーケストラ』、立風書房、1995年、203頁。

*6:薩摩秀登『物語 チェコの歴史』、中央公論新社、2006年、240頁。

*7:同上、232頁。

*8:高橋綾『カレル・アンチェル 悲運に生きたマエストロ』、アルファベータブックス、2018年、81頁。

*9:チェコ・フィルハーモニー管弦楽団公式ホームページよりhttps://www.ceskafilharmonie.cz/en/about-us/history/ (2020/07/15閲覧)

*10:プラハ 強硬策に高まる反発『デモの学生死亡』の情報も」、信濃毎日新聞、1989年11月20日朝刊海外面。

*11:前掲のチェコ・フィルハーモニー管弦楽団公式ホームページより

*12:同上

*13:薩摩、前掲書、234-235頁。

*14:ジャパン・アーツ公式ホームページよりhttp://pre-japanarts.sakuratan.com/news/news.php?id=4219 (2020/07/30閲覧)

「本格派ピロシキ」(院試日記 72日目)

大阪に越してきた1年目の夏、朝に聞こえる蟬の声が信州のそれとは違うことに驚いた。長野県においては夏の朝に鳴く蟬はみんみん蟬だと相場が決まっていた。ところが関西ではジャアジャアという声が聞こえるのである。ああ、これが熊蟬の声なのか—そう思った。当然大阪の夏は信州のそれよりも暑いのだが、熊蟬の鳴き声はそれを引き立たせているように思えた。
今年もそんな季節が来たのだ。

朝、寝不足の体を少しでも起こすために家から北に向かって自転車を走らせた。坂はそこそこにきついが降りるほどではない。鈍った体を動かすにはちょうど良い。尤も、高温多湿な空気は堪えたが。熊蟬の声を聞きながら坂をのぼり終えると府道に出る。せっかくなので道沿いパン屋に寄ることにした。特段特徴があるわけではないが定冠詞をつけたくなるような町のパン屋といった様子のその店を、ぼくは密かに気に入っていた。
焼き上がったばかりのメロンパンと海老カツサンドをトレイに載せ、もう一品選んでいると、ある一つの商品が目に入った。
「本格派ピロシキ
ほう、「本格派」ときたか。まず町の普通のパン屋さんにピロシキが並んでいることが意外であった。関西にはかつて「パルナス」というピロシキの店が展開されており、かなりの人気を誇ったという。それを考えると案外ピロシキは身近な食べ物なのかもしれない。いやはや、茶色く綺麗に揚がったラグビーボール型のピロシキは食欲をそそるものだ。僕は迷わずトングでその1つを掴んだ。

帰宅するとコーヒーを淹れ、ピロシキを軽くトースターで温めた。かりっ、と軽い音を立てる生地のその中には、果たして春雨が入っていた。その他の具材は玉ねぎ、挽肉、卵など。なるほど「本格派」である。渋谷ロゴスキーがはじめに考案し、その後全国へ広まった「春雨入りピロシキ」は確かに「本格派日本風ピロシキ」と呼ぶにふさわしい。
この由緒正しき日本風のピロシキはなかなか美味しいし、何よりその気取らなさが町のパン屋さんには似合っている。また今度見かけたら、ぼくは迷わずトレイにそれを載せるだろう。

今日(7/20)の記録
独語予習 1h15m
独文解釈 1h4m
独語論文 1h3m
美術史(初期ルネサンス) 1h1m
計 4h23m

肝心な時に限って眠くない(院試日記66-71日目)

ここ3ヶ月、スーパーと研究室にたまに行く以外の外出をほぼしていないため世間がどう動いているかこの目で見ていなかったのだが、いざ街に出てみると思いの外日常が回帰していることに驚きを隠せない。駅は平時と同様に人で溢れ、商店街もいつも通り営業している。危機感が薄いと思う一方、こうでもしなければ経済は破綻してしまうのだから仕方がないとも思うし、上の方針に従わざるを得ない人も多いのだろうとも思う。経済と衛生、どちらも倒れないための綱渡りは大変なことである。とりあえずここひと月で「夏場のマスクはクソ暑い」ということを知った。

さて先日独文解釈の勉強をしていたところ、思わず泣いてしまった。別に内容が簡単だったとか、あまりに難しすぎたとかではない。大体の文構造がわかり、単語もほぼ知っているか予測がつくかだったのである。1ヶ月前ならきっとちんぷんかんぷんだったであろう。それが分かるのである。比較的平易な文章だったのかもしれないがそれでも、ぼくは嬉しかった。そんなこんなで最近単なる研究のための道具であったドイツ語が楽しくなってきた。無論すらすらと読んだり使いこなせたりするレベルではないのでこれからも頑張りたいものである。

そういえば生活習慣は相変わらず良くない。ドイツ語で涙したのは深夜2時とかである。原因は勉強時間が後ろ倒しになっていることと、マグの中に入った黒い液体であろう。コーヒーがなければ勉強できない体質は本当に良くない。こんなことしているから日中は眠たいのに夜、眠るべき時間に眠たくないのだろう。しゃんとせななあ…

記録
美術史(ロマネスク、ゴシック)と独文解釈(1日2題)を1日平均3時間ほど。

丼の中のボロネーゼ(院試日記 63-65日目)

生活が崩れ出すとまず水回りが汚くなるらしい。なるほど、と思った。気づくとトイレには黒ずんだ汚れがつき、風呂場の排水口には髪の毛がこびりつく。ここ最近続いた雨を理由にして洗濯物も溜めてしまっている。食器は溜まってはいないが、それは最近食事を全て丼1つで済ませているからだ。誰かに見せるわけでもない、カレーにしろパスタにしろ盛り付けるのは丼で十分だ。

 

相変わらず寝起きは悪い。平気で昼頃まで寝てしまう。なんなら通常通りオーケストラがあった方が生活にメリハリが付いたのではないか、という気がしなくもない。土曜日は結果14時くらいに起きた。なんとか月曜日までに生活を直すべく、日曜日は朝5時に寝て昼に起きた。そして今日はなんとか早起きし、今に至る。やはり早く起きると勉強も軌道に乗りやすいと実感した。

一度生活のリズムが崩れると立て直すのは難しい。加えて意志薄弱なので習慣が身につかない。さらにTwitter廃人ときた。もっと自分に厳しくしないと、というのはわかるのだが結局自分に甘いのでこの体たらくである。5年後、10年後に苦労しないように今頑張っておきたいものである。

 

7/11の記録

独語予習 1h
独文解釈 58m
美術史(ビザンティン美術) 1h22m
計 3h20m

 

今日(7/13)の記録

独文解釈 1h3m

独語予習 2h25m
美術史(ロマネスク) 1h7m
英語論文 31m
計 5h6m

お金で手に入る幸福(院試日記 57〜62日目)

人間「明日から頑張ろう」と思っていると10日くらい経っていることがしばしばである。10日というのは1ヶ月の3分の1に相当する。ちょっと前に7月に入ったばかりだと思っていたのに。

勉強時間が足りていないのは明白だが、質も明らかに良くない。鉛筆を動かしたり辞書を引いたりはしているのだが、もっと丁寧にできるのではないか?と思うことが多いのも事実。結局正しい勉強のやり方がわからないままこんな歳になってしまった以上、手探りの状態のまま院試に臨もうとしている。これはあまり良くない。

前に7月からの目標を書いたが、早くもしわ寄せが来ている。独語と美術史に関してはまあまあ頑張っているつもりだが英語の論文を読む時間が取れていない。計画的な時間の使い方を考えていきたいものである。

 

ところで最近、買い物依存症というほどではないのだが、一時的な満足感のためについついAmazonで本を買ってしまう。それは大体は美術史や美学や文化人類学の本なのだが、いかんせん消化するのに時間がかかるため積読本を増やすだけとなってしまうのは反省したいところ。お金を使って商品を手に入れることは手っ取り早く幸福を得る手段であり、故にお金で手に入る幸福がこの世には存在するのである。しかし品を有効に使わなければただお財布が寂しくなるだけである。買った本は丁寧に読むとしよう。

 

今日(7/10)の記録

独語予習 1h

独文解釈 58m

美術史(ビザンティン美術) 1h22m

計 3h20m

昨日以前は独文解釈とギリシャ・ローマ美術をやっていました。…流石にこれはまずい。もっと時間増やしますわ…

変容(院試日記 54,55,56日目)

大学図書館の前に1台のごみ収集車が停まっていた。その光景は特段不思議なものでは無いのだが、少し注意して見たところ思わず目を丸くしてしまった。

ごみ収集車に飲み込まれているのは本だったのだ。

そうか、廃棄図書はこうやって処分されていくのか—と思った。

べつに図書館を非難する気は毛頭ない。図書館が新しい書籍を所蔵するためにはスペースを確保しなくてはならないし、処分する本を決めるプロセスもそんな簡単ではないはずだ。複数冊あるとかデータベースかされているとか、そう言った理由で削られることもあるだろう。ただ、ぼくはきちんと装丁されたハードカバーの本が何冊もごみ収集車の中へと放り込まれていくという強烈で分かりやすい光景を前にしてある種の残酷さを感じたという、それだけの話である。

身勝手なことだが、例えばどこかの焼却炉やリサイクルセンターへとコンテナに陳列された状態で輸送される光景だったとしたらそこまでショックは受けなかっただろう。結果としては本が捨てられるということは同じなのだが、今まで図書館に蓄積された知識だったものがごみへと変貌するその瞬間を目の当たりにしてしまったインパクトは計り知れないものだった。

 

ぼくは紙に書かれた書物とCDを愛しているが、これは電子書籍やストリーミングを否定するわけではなくただ単にその目に見える質量性が好きなだけである。その目の前でこうした光景が繰り広げられたらちょっと悲しくなるのも仕方ないというものだ。そのくらいの感傷に浸るくらいは許してほしいものである。

 

―そう思うと同時に「こんな単純な日常の事象が一人の人間をここまで考えさせるならば、視覚イメージが人間にできることはまだあるのだ」とも思ってしまった。美術に関わる者として視覚イメージの作用については敏感になっておきたいものである。

 

今日(7/4)の記録

独文解釈 1h11m
独単語 14m
英文解釈 55m
英単語 27m
美術史(古代ギリシャ) 2h51m

計5h38m

焦ったところで(院試日記 53日目)

「7月」という字面は「6月」のそれより夏を感じさせるものだ。6月30日と7月1日との間には大きな空白地帯があるのではないか、という気さえしてくる。しかし時間は一定に流れ、6月29日から30日になるのと同じ具合に当たり前に7月1日もやってくる。

 

7月初めの日は演習発表で始まった。この演習は卒論作成とは関係なしに、文化人類学やグローバルアートについて関連する論文を読み、考えるというものである。なかなか読むのに骨の折れる文章に当たってしまったのでここ数日ちょっと大変だったが、まあこれからこういう文章に出くわすことも多いだろうし慣れていかねば、とも思う。

 

さて院試までは3ヶ月を切り、いよいよ焦りが出てきた。加えて試験時間や内容が変更されるようでその点も不安である。ただ、焦って心配したところで結果が変わるわけでもないだろう。それなら余計な事は考えない方がよいので着実に勉強するだけだ。

まあ、それができたら苦労はしないのだが。

 

そして出願だけは忘れないようにしよう…

 

今日(7/1)の記録
美術史 1h52m(ヌーヴォー・レアリスム、ミニマル・アート、コンセプチュアルアートアルテ・ポーヴェラ、プロセス・アート、ランド・アート他)
発表準備 1h