遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

ご報告(院試日記Ⅱ 後日譚)

大学院博士課程、合格しておりました。合格発表の日、僕自身は東京におり、さらに弊学弊研究科はホームページに合否を掲示してくれないため、怯えながら美術館や演奏会に行っておりました。晩に一緒に博士の試験を受けた方から合否の掲示の写真をいただき、番号を確認—という流れで、合格を知った次第です。

さて、高速バスで帰阪して早々に僕はキャンパスに赴き自身の目で合格を確かめたわけですが、それでもなお実感は湧かないというのが正直なところです。これは嬉しさの反面、この先どのように研究を進めるのか、留学はどうするのか、そのための語学と金銭の問題は……などなどの問題にいよいよ本格的に向き合わねばならないという焦りがあるからだと思います。教授からは「とりあえずさっさとドイツとか行って来なよ」とばかり言われるのですが、個人的には基礎的な語学力を養ってから行きたいとも思ってしまいます。しかしそうしているうちに修士課程は終わってしまったことも事実。こうした不安が残っているあたりが自分がまだまだ小物たる所以なのかもしれません。

この先は妥協や甘えが許されない道になります。博士課程というのは他人から見たら専門家として扱われるということ。大学院生が人前で「自分なんてまだまだ」みたいな謙遜をすることは、無学を晒すに等しい—これは修士課程で思い知ったことの一つです。そういう謙遜がまだまだ強かったので、修士課程のうちにはなかなか留学や発表などに漕ぎ着けることができなかったのも事実です。この先は色々躊躇する前に行動すべきなのでしょう。

アカデミアの道に進む以上、いい研究をしたい、そして一廉の者になりたい。この青臭い野心も、いつかは懐かしく思う日が来るのでしょうか。

色々と思いつくままに書きましたが、それでも自分のやりたいこと、自分の歩みたい人生への一歩だと思うとこの焦りや不安は決してマイナスの感情ではないとも思います。皆さまこれからも何卒宜しくお願いします。

新宿の思い出

今日から三日間、オペラ公演と演奏会の鑑賞のために東京に滞在する。初日は初台の新国立劇場で『タンホイザー』。初台は京王新線で新宿から一駅だが、歩いても15分程度で行くことができる。宿も新宿駅から徒歩圏内のビジネスホテルにしたので、今日は新宿で一度降りてしまえば徒歩移動だけで済む。

タンホイザー』はかなり楽しむことができた。演出は控えめだが、歌手陣の歌いっぷりは見事なもので、特に第二幕以降はなかなかの長丁場にもかかわらずちっとも飽きさせない。満足しつつ帰路(?)に就く。

宿は新国立劇場とは新宿駅を挟んだ反対側にあるのでそこそこ歩かねばならない。適当な入口から入って構内を抜け、適当に歩いて反対側に行き着く。地方出身、関西在住の僕にとっては歩き慣れない駅だ。今でこそマシにはなってきたが、高校生の頃など目的のホームにたどり着くにも一苦労だった記憶がある。

あれは確か高校一年の冬だったと思う。当時長野県は松本市で華の(?)高校生活を送っていた僕は、友人と共に高速バスで東京旅行に行った。目的は陸上自衛隊中央音楽隊の演奏会を聴くためだった。松本駅前を早朝に出発したバスは、8時か9時かに新宿に辿り着く。当時はバスタ新宿はまだ無かったので、西口のどこかに降ろされたはずである。さて信州からノコノコ出てきた高校生二人がまず直面した難題は、新宿駅に入れないということである。入口らしき入口を見つけられなかったのだ。別に東京に来たのは初めてでは無いが、大人の引率無しの旅行は初となると、こんな単純なことも分からなくなってしまうのだ。近辺をウロウロしているとスバルビルという名のビルがあった。かつて僕が母と姉の三人で東京に行った際、「スバルビル入口」という名前の入口から入ったことを思い出し、そこから階段を下って新宿駅に入ることができたのだ。

さて新宿駅に入れたはいいものの、今度はホームの場所がわからない。旅行日程としては、まず新大久保の管楽器屋さんを見物する予定だったので山手線に乗りたいのだが、肝心のホームへの行き方がわからないのだ。とりあえず落ち着こうということになり、近くにあった適当なカフェに入った。ユーロカフェ、という名前だった。確かホットココアを頼んだはずである。そしてそこそこいい値段がした記憶もある。

その後無事に山手線に乗って新大久保の管楽器屋さんに行き、次に神保町で本屋さんを見て三省堂書店で所謂「藝大和声」を買い、カレーを食べ(小さな茹でじゃがいもが付いていた。とてもおいしかった!)、演奏会場のすみだトリフォニーホールに向かう—そんな旅だった。演奏会のプログラムに含まれていたバーンズの《詩的間奏曲》が非常に美しかったことは今でも覚えている。

 

大学に進学してから、距離的には遠くなったはずなのに行く頻度は増えたせいで、東京という街の持つ特別感はほぼ無くなってしまった。それでもまだ、新宿駅の構内では方向を見失いそうになることは、ある意味では「特別感」と言えるのかもしれない。

 

調べてみるとユーロカフェは昨年11月に閉店してしまったらしい。もう一度だけ、ホットココアを飲んでおけばよかった。

院試のあとで

去る2月2日、無事(?)大学院入試を終え、今日は一日中ダラダラと過ごしていた。

2月はなんだかんだ忙しく、今後会期終了の迫る李禹煥展に行く時間が無さそうなことに気づき、今日行っておけばよかったと後悔している。

 

さて院試だが、筆記試験は例年通りの英文和訳とその他外国語和訳が1題ずつ。英語はそこまで難しい文章ではなく、よくあるタイプの内容の文章だったので比較的スラスラ読むことができた。例年より易しい印象だ。

独語はアドルノの文章からの抜粋。これが難しいのか否か、判別できるほどの能力は僕にはないのだが、教授曰く「そこそこ難しい」らしい。詳しい内容を言うと問題がありそうなので伏せるが、だいたいの筋は追うことはできたかと思う。ただ、かなりわからない単語が多く苦労した。

口頭試験は主に今後のキャリアの話をして終了した。正直筆記試験の準備にてんやわんやだったせいで、どこの大学のどの先生のところに留学したいかとか、どのように語学力を磨くかとか、そういったことにあまり頭が回っていなかったので割と虚を突かれたような気持ちになった。

 

そんなこんなで午後4時過ぎに院試が終わった。解放感がないと言ったら嘘になるのだが、まだ実感が湧いていないというのが正直なところだ。結果発表は一週間後。その時僕は東京にいるのでリアルタイムで結果を知ることができない。帰ってきた先に待っているのは天国か地獄か……

 

しかし仮に残念な結果に終わったとしても、なんとか自分の人生を生きていくために努力したいな、と思えるような試験だった。とりあえず今日は休むことにする。

古き、悪しき歌よ(院試日記Ⅱ 16日目)

博士の試験が明日に迫る。その実感はあるのだが、妙に緊張感がないというか、ふわふわした気持ちになる。その一方で急に吐き気を催したりしているあたり、意外と心の底では緊張しているのかもしれない。

最後にもう一度過去問でも解いてみようと思い、時間通りに解いてみる。2回目のはずなのに案外(?)難しくて気持ちが萎えてしまった。やらなきゃよかったかもしれない。

 

もし落ちたらどうしよう……と、そればかり考えているが、もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし、まあ、頑張るしかないのだろう。

古いお伽噺から手招きする(院試日記Ⅱ 15日目)

奨学金の申請書を急いで出し、そのまま研究室で夜まで勉強をした。準備期間の短さと勉強時間の少なさの割には、読む予定でいた文献は読み終えられたのでちょっと自信になった。今日のドイツ語の文章は割とすらすら読めたこともあり、少々気分が良い。しかし、これは単に読んだ文章が簡単だっただけの可能性もあるし、気づいていないミスをやらかしている可能性もある。それでも無駄に不安がるよりはマシ、というものだろう。

短い期間でそれなりの量を読むことはできたが、それならばもっと早くから始めていれば……と思ってしまう。今更嘆いても仕方がないのだが。明日は試験前日。どう1日を過ごそうか考えつつ、家に至る坂道を下った。

 

今日の記録

独文和訳を4題と英文和訳を1題。合計5時間ほど。

夜ごとに夢で君を見る(院試日記Ⅱ 14日目)

(1/30の記録です)

 

本日は夜から予餞会があるのに加えて5限も入っていたのでなかなか忙しかった。ここ1週間院試の勉強に手いっぱいになっていたのもあり5限の予習が後に回っていたので、昼まではずっとその予習をせねばならなかったし、午後は午後で予餞会の準備なり、明日提出(!)の奨学金の書類準備なりがあったのでてんやわんやであった。

卒・修了生を見送る会である予餞会は芸術学ブロック6専攻で行われる。例年はお酒も出ていたのだが今年は(残念ながら)無し。ただ、ここ2年間はオンラインでの開催だったので、対面で行えただけでも良しとすべきだろう。

会は恙なく終わり、教授を交えて研究室での2次会へ。会食がなかなか実施できなくなって早2年以上が経ち、研究室単位で飲み会に行く機会もめっきり減ってしまった。例年行っていた研究室旅行やBBQも行えなくなってしまった。もし感染症の流行がなければ、もっと研究室のみんなで食事なり旅行なりができたのに……と思うと恨めしくもなる。だからこそ、今日、修了前に歓談できたのはうれしかった。実は院試直前なのもあり2次会に参加するかどうか迷ったのだが、出席してよかったと素直に思った。

 

その後、夜通しで奨学金の書類を準備していた。さようなら、生活リズム。

ぼくは夢の中で泣いた(院試日記Ⅱ 13日目)

(1/29分の記録です)

 

本日はオーケストラの練習でほぼ一日潰れてしまうため、勉強は出来なさそうだ。本当は早起きして独分和訳の一題でも解いてから行こうと思っていたのだが、昨晩気絶したように眠ってしまい、起きたら遅刻寸前の時間だったのだ。

練習場所までの移動で1時間ばかりかかるので、車内で単語帳でもパラパラしようと思いつつ、あまり荷物を増やすと嵩張るという問題がある。今日は背中に楽器を背負い、肩からはスタンドを提げて移動しなければならないので少しでも他の荷物は軽くしたいのだ。

流石は日曜日、車内は昼間でもそれなりに混雑していた。特に御堂筋線の混雑具合と空気の悪さは阪急の比ではなかった。こればかりはどうしようもない。地下鉄全般の薄暗い空気はあまり吸っていて気分の良いものではないが、しかし御堂筋線の駅や路線そのものは産業遺産として好きだ。梅田や心斎橋など、なかなかの貫禄を備えていると思っている。大大阪時代を今に伝える遺産の一つの割にはあまりに日常生活に入り込みすぎているのと、あちらこちらが更新されているせいでなかなかこの地下鉄が戦前からの生え抜きであることは意識しないが、その意外性もかえって美点にも思える。そんなことを考えていたらもう目的地の難波にたどり着く。意外と梅田から難波まではすぐで、歩こうと思えば歩ける距離なのだ。

思えば難波にはあまり来たことがない。せっかく大阪に住んでいるのに勿体無い気もするが、日常では梅田より南に行く必要がないから仕方がない。しかし、何年も後になって関西での暮らしに思いを馳せる時、後悔するかもしれない—と思うと、もう少し南の方に行ってみてもいいのかもしれない。