遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

深夜にキリンレモンを飲みたくなった話

昨晩のことである。


唐突にキリンレモンを飲みたくなったのだ。

人間、時にこういう時はあるものである。無性に油淋鶏が食べたくなったり、意味もないのに梅田に出たくなったり、部屋にドライフラワーを飾ったり。

それが、昨晩のぼくの場合はキリンレモンだったのだ。


時刻は二時半。深夜に出歩いても余程のことがない限り安全な日本国に感謝しつつ外に出る。

この時の格好、下はベージュのチノパンなのだが上はパーカーを一枚着ただけである。ジッパーを開ければ負け続きのボクサーか売れないロッカーさながらだ。ちなみに靴はコーナンに売っていたジェネリッククロックス。とても店頭で買い物をする格好ではない。目指すのは自動販売機だ。

最寄りのキリンレモンが売っている自販機までは徒歩一分もないのだが、問題はその自販機の立地である。新聞の集配所の前にあるため、一般人が利用するのは躊躇われる。日中、周りに人がいなければ買う気になるのだが時刻は二時半。案の定朝刊をバイクに積み始めていた。

仕方なく、他を探す。


ところで、ぼくは下宿から大学までの間のエリアはそこそこ何があるか把握しているのだが、逆方面となるとからっきしである。僅か数十メートルでも初めての道、というところが少なくない。もう住んで三年になるのに。

そんなわけで大学と逆方向に進み、自販機を探す。公民館の傍には五台ほど並んでいたが、キリンのそれはない。酒専用の筐体は二つもあるのに。さらに歩く。

家からほど近いのにこの川べりの道を歩くのは初めてだ。もっと早くから、家の周りを探索していたら少しはぼくも変わっていたのかもしれない。お気に入りのお店とか、公園とか、路地とか、そういったものを見つけられていたのかもしれないのに。そう思うと、限られた(それも大したことない)コミュニティにだけ執着して意地を張るように生きてきた三年間が無駄に思えた。今夜の月が満月から少し欠けた形なことさえどこか示唆的に感じた。


ぼうっとライトに照らされたコインパーキングの看板が見えた。コインパーキングには自販機があるものである。やはり、自販機はあった。しかしキリンレモンは売っていない。

ただ、この自販機、魅力的なことに価格が五十円から八十円なのである。人間、安さには弱いものである。煌々と光る機械を眺め、何を買うか考える。

十円玉を五枚入れて購入したアイスココアは、妙にざらついた、しかし爽やかな味がした。一口目こそ「これなら家で粉を溶いて作った方がうまい」と思ったのにそれ以降は美味しいと感じてしまう。深夜の空きっ腹にココアの甘さはよく効いた。


ココアを飲んでしまった今、キリンレモンへの意欲は確実に低下している。このまま帰っねも良いとさえ思った。しかし、なんとなく、まだ歩きたかった。キリンレモンとは関係なしにぼくは夜を歩いた。


川沿いを進むと砂利敷きの歩行者専用道に入った。あかりの少ない中、舗装されていない道を行くのは不安だが深夜は偏差値を低下させる。どうしようもない編曲を数時間で完成させたり、東ドイツ製のトロンボーンを衝動買いしたり、そういうことをするのはだいたい深夜だ。そもそもキリンレモンのために出歩くことも頭のいい行動ではない。そんなわけでこの時のぼくは「これもまた一興」とばかりに、サンダルに入ってくる砂塵も気にせず歩いた。


見慣れない道と思っていたら、川と反対側のフェンスの向こうに見慣れた施設が見えた。自動車教習所だ。車校というのは魅力的だ。狭い空間にあらゆる交通の要所を詰め込んだその姿はチョコレートアソートに通ずるワクワク感がある。柵の中に世界を構成する要素を閉じ込めた様は一種の箱庭だ。車校に対してそんな印象を持つ人がどれだけいるのかは分からない。ただ、人間誰しもそういう独特の感覚はあるものだと思う。

車校の用地の端で川から離れ、狭い住宅地の道路を抜けて行く。もはやキリンレモンは重要ではなくなっていた。ただ、歩きたかったのだ。

やがて私鉄の線路に行き当たる。線路沿いを歩き、踏切を渡る。街路樹の整備された小綺麗な道を行くと、その途中にキリンレモンが売っている自販機があった。


結局、ぼくはキリンレモンを買った。あれほど「もういいかな」と思っていたのに、やはり現物を目の前にすると欲しくなってしまうのである。ハンカチで缶の縁を拭い、プルタブを起こす。ぷしゅ、という小気味の良い音。口に広がるレモンの風味と炭酸。「生きてる」、と感じた。こんな夜中にキリンレモンを買いに出歩いてよかったのだ。ぼくは正しい。そう思えてきた。


本懐を遂げたぼくは安心して家路に着いた。線路沿いの横に長いマンションの見てくれが旧ソ連の衛星国にありそうな見た目だなぁ、などと思いながら。