遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

九月が行く

気付けば九月も後半となっている。

大学に入ってこのかた、夏休みにしようと思っていたことは何も成し遂げられていない。今年はドイツ語の勉強に本腰を入れようと思っていたのだ。しかし特になにもやっていない。机の上に参考書がわびしく置かれているだけだ。


バウハウスの研究をする、と決めたのだからそれ相応の努力は始めなければならないし、博士課程に行くと決めたのだから生半可な覚悟では許されないのは分かっているのだが、今までの人生をテキトーに生きてきたツケはこんなところで回ってくる。


果たして、今まで僕は本気で努力をしたことがあるのだろうか。

高校受験は、受験勉強らしいこともせずパスした。大学受験は、それはそれなりに努力したと思う(個別試験の過去問は七年分を遡り、毎日夜十時半まで勉強したのだ)が、そもそも受験校選択が個別試験に数学を課さないところを選んだ結果であった。それで、併願なしで合格している。妥協、妥協の人生である。テストやレポートもほぼ一夜漬けで済ます始末。具合の悪いことに、今までそれで割と上手くいってしまっているのだ。

妥協という観点からすると恋愛についてもそうだ。数少ない経験を振り返ると何もできないまま失恋したことしかない。こちらは上手いこといっていない。告白して振られるという終わり方の潔さには敬意さえ抱く。


一体ぼくはなにを成し遂げたというのか。挙句ダラダラと毎日を過ごし、親に金をせびる。アルバイトでもすればいいのだがなかなか手が出せない。これについては、今まで面接を受けたアルバイトを全て落ちているため怖くなってしまった、という一面はある。自炊する気力は削がれていき、ちょっと放っておくだけで部屋は散らかっていく。遊びに行く友人などおらず、そもそも遊ぶ金もない。ぼくがステンハンマルの交響曲だのモシュコフスキのピアノ協奏曲だのを聴いている間、比較的近しい人々は最後の青春を謳歌していると思うとたまにとんでもなく悲しくもなる。所謂カースト底辺の割に外に出るのは好きなのでちょっと外出してみても、ふとした瞬間に孤独を感じて胸が荒む。


やるべきことから逃げてるだけじゃないか、と言われればそれまでだし、それはごもっともである。


だからぼくは今日もツイートする。

「かわいい女の子とお付き合いしたい」