遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

ひとりということ

大学一年生の頃、ぼくはそれはそれは孤独だった。信州の小都市からひとり、遠くの都会に出て、いきなり一人暮らしを始めたのだから。

もともと人と話すのは苦手だ。今まで生きてきて、友達と呼べそうな人は二、三人いるかどうかである。まして見知らぬ土地の大学にぽんと放り出されたのだ。最初の三ヶ月は毎晩泣きそうになっていた。そのうち、ぼくは独りで心を満たす術を身につけた。

 

列車に乗っている時間、美術館にいる時間、街を歩く時間、演奏会を聴く時間。こういった時間は意味のない時間に何かしらの価値を持たせ、寂しさを紛らわすことになった。無計画にぶらぶらと過ごす時間は無駄に見えて有意義なものだった。こうしているうちに独りでいる気楽さを好きになってしまった。

 

人間関係というのは、どこかしらで譲歩しなければやっていけないのだ。そして、無意識に譲り合う関係は幸福なものであるが、それが義務になってしまったらその関係は不健康なものであろう。ぼくは勝手な人間である。ここ三年、思うがままに生きてきた面は大きい。そしてそれは自ら孤独へと走っていたことを意味する。

 

態度の面でもそうなのだ。ぼくにとって「友人」という言葉は、比較的深い関係にある知人を第三者に説明するときに便宜的に用いる表現でしかない。それは冷たい態度なのかもしれないのだが、ぼくが相手を友人だと思っていても、相手がそう思っていないことがぼくはとても怖いのだ。関係の非対称性をぼくは何より恐れている。だからぼくは友人とか友達という言葉を避けてしまうし、人をファーストネームで呼んだり呼び捨てやあだ名で呼ぶことは殆どない。その姿勢は周りから疎外されることにも繋がったのだろう。

 

結局、ぼくは独りでいるべきなのかもしれない。自己を形成した二十一年という時間は、修正するにはあまりにも長すぎた。