遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

ラインに、その神聖なる流れに(院試日記Ⅱ 6日目)

午前中に予定があると否が応でも起きねばならないので、怠惰な人間にとっては有用である—尤も、寝坊の危険が伴うが。

今日は午前中にロシア語の読書会があったため、起きたら昼!という悲劇を免れることができた。現在はゆっくりではあるがツルゲーネフの短編を読んでいる。ロシア語に関しては初学者も初学者なのだが、それでも文豪の作品に原文で触れられる喜びは大きいものである。

さて、院試まで二週間を切っているくせにこの後は京都市交響楽団の演奏会のために京都は北山まで繰り出そうというのだから、こいつは不真面目の極みと言わざるを得ない。しかし、演奏会に通うことだけが僕を僕たらしめている、そんな感覚すらある以上、この演奏会通いをやめたら自己が消失しかねないのである。

本日のメインはラフマニノフ交響曲第2番である。ツルゲーネフを読んだ後にラフマニノフを聴くのはなかなか乙なものではないか。ラフマニノフドストエフスキーゴーリキーというより、ツルゲーネフチェーホフのイメージである。適当な印象だが。

京都市交響楽団京響の演奏水準は個人的には関西のプロオーケストラの中では一番高いと思っているので、毎回安心して聴くことができる。今日も期待に違わぬ佳演を楽しむことができて満足である。ラフマニノフ交響曲第2番は、まあ人気な曲と言っていいと思うのだが、反面その甘さと長さゆえに好き嫌いが分かれるきらいもあるように思える。個人的にはその甘美な旋律や巧みな循環形式もさることながら、決して優秀ではないが意図の分かるようなオーケストレーションを気に入っている。彼が自身の長い指で以て鍵盤を弾いた通りの音が、フルスコアに落とし込まれているような、そんな印象を抱くのである。また、僕のこの交響曲への偏愛は、僕が初めて大学のオーケストラで演奏した曲だから、という理由も大きい。この曲は、右も左も分からない中1時間に及ぶ大作に対峙した5年前の冬の日に、いつでも僕を連れ戻してくれるのだ。あの頃は全てが新鮮だったし、惰性で生きることを知らなかったように思う。それに比べたら、現在の自分はなんとまあ、甘ちゃんになってしまったことか。音楽それ自体以上の感情を抱えつつ、僕は京都コンサートホールの螺旋状のアプローチを下っていた。

 

帰る前に北山の進々堂でちょっくら勉強していこうと思ったのに筆箱を忘れてきていて萎えてしまった。仕方なく手帳のボールペンを使った。鉛筆がこんなに恋しかった瞬間もない。また、いつも来るたびに買っているカヌレが売り切れで、これも少し悲しかった。

 

今日の記録

独文演習の予習がてら長文和訳を2.5hほど。