遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

ヨーゼフ・ロートにとってのハプスブルク君主国

ヨーゼフ・ロートオーストリアハンガリー二重帝国支配下ガリツィア地方(現在のウクライナ)に生まれた作家である。今回は彼の著作をもとに、そこで語られるオーストリア=ハンガリー二重帝国、即ちハプスブルク君主国像を考察し、彼のハプスブルク君主国観について考えていく。そして、それが単なる祖国への郷愁といった言葉で語りうるものではないことを示したい。 なお、執筆にあたっては小説『サヴォイホテル』、『果てしなき逃走』、『ラデツキー行進曲』、 『皇帝廟』を参照した。


1.「辺境」に見える君主国
まず、4本の小説の舞台を整理する。『サヴォイ・ホテル』の舞台は「ヨーロッパの入りロ」の都市で、名前が明かされることはないが、ポーランドの ウッチ市を背景にしていると見られている。 『果てしなき逃走』 では捕虜を主人公にシベリアからシュメリンカ、 バクーを経てウィーン、 ライン地方、 パリと舞台を変える。『ラデツキー行進曲』はスロヴェニアの農民出身の一族を描き、1代目は貴族となった後ボへミアの農園で過ごし、 2代目はメーレン州 (モラヴィア)の都市(いまのヴィシュコフ市と考えられている)で郡長を務め、3代目は後にロシア国境 (いまのウクライナのブロディと見られる)に転属されて東部戦線で戦死する。 『皇帝廟』はウィーンを中心に展開する。『サヴォイ・ホテル』、『ラデツキー行進曲』は主に君主国の国境付近を扱っている。 また『皇帝廟』 はその登場人物にスロヴェニア出身の主人公の従兄弟で焼栗売りのブランコやガリツィア出身の馭者ライジガーがいる。 更に4つの小説どれもが第1次世界大戦における東部戦線を扱っている。つまりいずれも君主国の東の端の辺境領域や、 ウィーンから離れた諸邦に目が向けられていると読み取れる。ここで『皇帝廟』 において主人公の友人、 ホイニッキイ伯爵が言った言葉を見てみよう。
「—紳士諸君!オーストリアの本質は中心ではなく、 周辺にあるのだ。 (中略) オーストリアの実質的な力は君主国の周辺諸邦によって養われ、 絶えず補充され続けるのだ」
つまり、君主国を真に君主国たらしめているのはウィーンではなく、 むしろ周辺であるというロートの考えが読み取れる。 ここから特定の何かではなく、 君主国全体で見られた普遍的な存在にこそロートの 「郷愁」の真意があると考えられる。例えば『ラデツキー行進曲』では物語の各所に2つのモチーフがちりばめられている。ヨハン・シュトラウス1世作曲の《ラデツキー行進曲》 と皇帝フランツ・ヨーゼフ1世である。メーレンの地方都市で鳴り響く《ラデツキー行進曲》や娼婦館に掲げられる皇帝の肖像画。このモチーフは君主国のどこにでも見られたものであろう。 ロートは往年の祖国を代表するアイコンとしてありふれたこの2つを採用したのである。また『皇帝廟』でもスロヴェニアのズロトグロートの駅について 「駅はちっぽけで、ぼくが子細に記憶していたジボーリエの駅に似ていた。昔のハンガリー=オーストリア君主国の駅はどれも似かよっていた」、 あるいはズロトグロート唯一のカフェー 「カフェー・ハプスブルク」について 「ぼくがいつも午後に友人たちと顔を合わすのが常だったウィーンハ八区ヨーゼフシュタットにある「カフェー・ヴインメル」とまったく外観が異ならなかった」 と記されている。 つまりロートが祖国を回顧してその描写をする時に用いるのは辺境地域を含めた君主国に広く見られた対象であり、しかも何ら珍しいものでもない。 そして「民族的」なものでもないのである。
また、『果てしなき逃走』、 『皇帝廟』では主人公は東部戦線でロシアの捕虜となった後、経緯こそ違えどもウィーンに行く。 ロートはウィーンについて、『皇帝廟』 で 「帝国の首都であり最大の都市であり、王宮所在地であるこのウィーンが一ぼくの父はよくそう言っていたが一オーストリアにたいする領邦諸州の悲劇的な愛によって養われていたことはまったく明らかだった」 と語り手に語らせる。周縁のガリツィアに生まれた帝国民であったロートは、周辺に支えられながら輝く帝都ウィーンを憧れと嫉妬の入り交じった目で見ていたのかもしれない。 東方で捕虜生活を終えた登場人物が「戻る」 場所は、 その憧れの都ウィーンでなければならなかったのは当然だったと考えられる。


2.民族と君主国
ロートの小説には多民族国家であったオーストリア=ハンガリー君主国を象徴するかのように様々な民族が登場する。 また、 ロート自身ガリツィア生まれのユダヤ人であった。『サヴォイ・ホテル』 のサヴォイ・ホテルは上の階ほど居住性が悪く、特に最上階の8階は「廊下が狭く、 天井がはるかに低く、 洗濯場から灰色の蒸気が流れだし、 湿った洗濯物の臭いが立ち込める」階であった。すなわち上階に貧しい人びと、下階に富裕層が暮らしており、ヒエラルキーとは逆とは言え社会を体現しているかのようである。加えて上階層の住民の出自を見てみると、踊り子、 寄席芸人、 クロアチア人の帰還兵、 ユダヤ人の催眠術師、 ブカレストの元公証人など民族も仕事もばらばらである。 そして下階から上に上がるエレベーターやそのエレベーターボーイのイグナーツ、 あるいは息の詰まる洗濯場は上流階級のために苦しい生活を強いられる貧しい人びとという社会の縮図である。ここに、上階の住民の多様な出自という視点を加えると、 これは第1章で述べべた「周辺に支えられるウィーン」 という構図と一致する。 舞台となったウッチ市は君主国の領土ではないが多様な人びとの行き交う土地であり、サヴォイ・ホテルは君主国の比喩ともとれる。つまりロート自身、 手放しで君主国を評価していたとは言えないだろう。
しかし、ロートは第1次大戦後に分割されていくヨーロッパに疑問を呈している面もある。『果てしなき逃走』において、 ロートは主人公に兄のいう 「ヨーロッパ文化」を批判させる形で皮肉を言う。
「…この古い文化は孔だらけになっているよ。 あんたがたはアジアだの、 アフリカだの、アメリカだのから公債をつのってその孔に栓をかってるんだ。それだのにあんたがたはやっぱりヨーロッパのユニフォームを着ている。…」
考えるに、 第1次大戦を通してヨーロッパは「解放」 された一方、 先進地域としての優位性を失い、その旧態依然とした文化をオリエンタリズムで補いながら何とか「文化」 を構築しようとしていたのだろう。 それはかつての汎ヨーロッパ的理念は途絶したことを意味する。ロートは東方ユダヤ人の出自を持ち、民族自決の中で帰属できる場所を失う立場にあったと考えられる。 決して上手く機能していたとは言えなくとも、ドイツ人、 ハンガリー人、スラヴ民族、ユダヤ人等が一応皇帝の下で共存していた君主国にロートが郷愁ともとれる念を抱くのは自然なことであろう。そしてその郷愁の対象は先に述べた通り、《ラデツキー行進曲》や皇帝の肖像、 駅やカフェーなどであり、 決して民族的なものでは無かったのもそのためであると考えられる。加えて『皇帝廟』にてホイニッキイは焼栗売りという職業について、ヨーロッパ世界の半分を占める君主国で栗を売っていたことから 「まさしくシンボリックな職業だ。 昔の君主国を示すシンボルなのだ。(中略)今ではヴィザなしでは焼栗も食べられん」 と語り、 君主国の解体と民族自決の負の一面を焼栗に暗示させている。


おわりに
以上より、ロートのオーストリア=ハンガリー君主国への感情は単純な郷愁や愛国心というよりも、ユダヤ人であった彼にとっては第1次大戦後の過度なナショナリズム反ユダヤ主義を、いびつな政治体制であったにせよ君主国は結果的に和らげていたことを必然的に肯定的に見なければならなかったが故に生じたものであると考えられる。 『皇帝廟』の最後はナチによるオーストリア併合で終わる。 これは民族主義の考えが暴走したなれの果てである。つまりロートの君主国への評価は、 行きすぎたナショナリズムはやがて全体主義へと走っていくという警鐘であると言えるのではないだろうか。


参考文献
ロート著作
・『皇帝廟(ヨーゼフ・ロート小説集 4より)』(1938年)佐藤康彦訳、鳥影社
(諏訪)、1997年
・『サヴォイ・ホテル(ヨーゼフ・ロート小説集1より)』 (1924年)平田達治訳、 鳥影社(諏訪)、1994年
・『果てしなき逃走 (ヨーゼフ・ロート作品集Iより)』 (1927年)小松太郎訳、東邦出版社(東京)、1974年
・『放浪のユダヤ人(放浪のユダヤ人 ロートエッセイ集より)』(1927年)平田達治訳、法政大学出版局 (東京)、 1985年
・『ラデツキー行進曲 (上・下)』(1932年)平田達治訳、 岩波書店(東京)、2014年

その他
・ロビン・オーキー『ハプスブルク君主国 1765-1918 マリア=テレジアから第一次世界大戦まで』(2001年)三方洋子訳、山之内克子 秋山晋吾監訳、 NTT 出版(東京)、2010年
・エーリヒ・ツェルナー『オーストリア史』 (1990 年)リンツビヒラ裕美訳、 彩流社(東京)、2000年
・平田達治『放浪のユダヤ人作家 ヨーゼフ・ロート』鳥影社(諏訪)・ロゴス企画(東京)、2013年
・スティーブン・ベラー『世紀末ウィーンのユダヤ人 1867-1938』 (1989年)桑名映子訳、刀水書房 (東京)、 2007年

 

この文章は「戦争・文学・ハプスブルク帝国」というタイトルで課されたドイツ文学の講義の課題として書いたレポートをもとに加筆・修正したものです。