遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

大きな服に慣れていく(修論日記 9-10日目)

朝、窓を開けると金木犀の香りがした。天気は雨。雨がその芳香を運んできたかのようだ。
僕は愚かだった。外に洗濯物を干すことができないのに洗濯機を回し始めてしまった。それだけで気持ちが沈む。
せっかく早起きができたのに、そんなことで凹んでしまい、結局大学に辿り着いたのは11時を回った頃だった。
早起きできたのには理由がある。昨日、某学会に顔を出したところ色々な意味で疲れてしまったのである。

阪急電車で烏丸まで行き、地下鉄に乗り換える。学会の当番校は京都の北の端に位置している。この日、僕がメインの所属学会ではないこの学会に出向いたのは、研究対象を扱った発表があるからだった。それに関してもワクワクしたし、なにぶん学会に対面で参加するのが初めてなのもあり多少の高揚感を抱いた。一応スーツを着て、ネクタイも締めて行った。尤も、そんな服装の人はほとんどおらず逆に浮いたのだが。
僕は修士2年の学生、それもなんの業績もなく、研究能力にも乏しく、それを埋めるための努力もできなかった学生である。それが背伸びをして他所様の学会に来ている。それはまるで着ているスーツが板についていないように、身分不相応なことに思えた。「見栄をはるのは、けっこうなことだ。最初は大きすぎる服でも、成長すれば身体にあうようになる。勇気も同じことだ」—『銀河英雄伝説』にて、オリビエ・ポプランはそう言っていた。そういうものなのだろうか。今の僕には分からない。
そんな空気に気圧されたのと、それから夕飯に食べたラーメンの量が思ったより多かったせいで、帰宅早々に眠りについてしまったのだ。そのおかげで早起きができたならば、悪いことではなかったのかもしれないが。

昼からラップトップに向ってはいたものの、何の成果も無い。担当教授曰く「行き詰まってる時は材料が足りない」。それはわかっているのだ。ただ、鉱脈のない地層だということに2年間気づかなかった—というより地面をろくに掘ることをしなかったせいで材料がなく、そして別の鉱脈を探す時期を逃してしまったのだ。きちんと研究をした結果追い込まれて人生が厭になるならば、それは考慮に値すると思うが、僕は怠惰に怠惰を重ねた挙句に休みたいなどとほざいているのだ。誰もいない研究室で、誰にも聞かれないのをいいことに、「死にたい」と何度も呟いた。もう家に帰ってもいいのに、帰るのも億劫で、何もできずに2時間くらい椅子に座りっぱなしになる。帰りに寄ったスーパーで、これからの人生や、今の経済状況や、整理整頓の四文字とはほど遠い自宅のことを考えて自然に涙が出てくる。結局何も買わずにスーパーを出る。何でこんなことをしているんだろう、もっと生産的な生き方もあったでは無いか、と思う。死にたいなどと言うのは僕に関しては多分嘘なのだ。金と時間と心の余裕があればやりたいことはいくらでもある。手っ取り早くそれらについて悩むことから解放される術が死というだけだ。そして、今の自分が身を置いている環境を選んだのは他でもない自分自身である。
別に望んでなくても日は昇っては沈み、それが八十数回繰り返されれば修論の提出日が来る。悩むのは非生産的だ。それでもラップトップや同時代文献や論文に向かうと金縛りに遭ったかのように身動きが取れなくなる。つまらん言い訳だな、と自分の中の冷笑主義者が嘲笑する。

どうせ今日も3時過ぎまで眠れない。朝起きれば今日のことは忘れているが、夜になれば似たような気持ちになる。明日も、明後日も、どうせ僕は変わらない。