遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

Muss es sein?(修論日記 15-16日目)

土曜日に、知人の誘いでミラン・クンデラの研究会に参加した。参加、と言っても僕はただの読者に過ぎないので、研究者の方々の話を只管に聞いていただけではあるが。
さて、クンデラという小説家を好きか、という問いに誠実に答えるのは、僕にとっては難しい。少なくともそこそこに読む小説家であることは確かだし、『冗談』や『別れのワルツ』、それからエッセイの『裏切られた遺言』などは好きな著作と言っていいと思う。しかし、その「好き」という意識の源流を辿ると、彼特有の皮肉とユーモアに加えて「社会主義政権下のチェコスロヴァキアの描写」という点が大きな部分を占めているのは否めない。つまり、僕は彼のチェコスロヴァキア時代の作品はそれなりに読んでいるとしても、フランス亡命後の作品についてはまともに読めていないのではないか?という疑問というか負目というかが常にあるのだ。実際、代表作の『存在の耐えられない軽さ』は(1968年の「チェコ事件」は重要な要素として組み込まれているにもかかわらず)3回くらい挫折してようやっと読み終えた作品であるし、『不滅』も1ページ読むのにひどい時は10分以上費やす—そして頻繁に前のページから読み直す経験を経て読み切った。そんな読者が、彼の作品を「好き」というのは大変烏滸がましい話であると思ってしまうのだ。
そんな奴が研究会に出席するというのもなんだか差し出がましい気持ちになる。そしてクンデラを専門とする研究者の方が集まる中に、ただの"ファン"(それもにわかファン)がいるというのもとても申し訳ない。そんなこんなで緊張しながら割り当てられた大学の講義室にちょこんと座っていた。

内容はとても興味深いものだった。概説的説明に始まり、何人かの専門の研究者の方が、それぞれのアプローチから自由に話し合う。見ているだけで刺激的であったし、単なる読者である自分にとっても、また違った観点からクンデラ作品を読んだり捉えたりする契機にもなった。また自分の研究対象とは離れた研究に触れるというのは、僕の場合、自身の研究へのモチベーションを高めるきっかけになる。その日、僕は今まで味わったことのない不思議な満足感を得ていた。
「そうでなければならないのか?」—ではないが、今歩いている道が、果たして「正解」なのか?という問いに、僕はここ1年近く苦しめられてきた。それがこの週末、今までなかなか解決できなかった悩みが、思いがけないところで解決—というより吹っ切れたように感じたのだ。資料整理、一次文献の読解と翻訳、先行研究のまとめ、発表、そしてその帰結としての修士論文。それからその後に迫る院試。やることは多いが頑張ろうという気持ちにさせられた。修了したいし博士に進みたいという単純な希望が今まで以上に重みのあるものになる、そんな週末だった。