遥か、もち巾着。

もしもって思ったら何かが変わるわけでもないし

2020-01-01から1年間の記事一覧

生活が安定しない

朝起きてコンビニに買い物に行く途中、民家に日章旗が掲げられているのが見えた。それで今日が祝日であることに気づいた。 かくように、今日は午前中にも活動しているのだ。しかし人間らしい時間に就寝し、人間らしい時間に起床したというのになんだか身体が…

生きていくのにはお金が必要である

大学院に行くのはいいが学費は出せないと親から告げられた。まあそれはしょうがない。大学4年間を奨学金なしで過ごすことができたのは両親のおかげなので文句はない。大学を卒業した後になっても親の脛を齧るのは世間的に見たらモラトリアム人間にしか映らな…

最近購入した本など

新学期に入り一月近くが経つがその実感はほぼ無いと言ってよい。今年の春は比較的時間があることもあって主にAmazon他で本なりなんなりをいつもよりポチポチしてしまったのでご紹介するとしよう。 書籍 ・バウハウス―その建築造形理念 (SD選書 156)/杉本俊多…

プリンターと雨の話

ぼくの家にはインクジェットプリンターがある。一応数年前の最新機種なので物は悪くない(はず)。これはぼくが引っ越した際に実家のプリンターを買い替え、古いほうを譲り受けたものである。しかし1年以上前にインクを切らして以来置物と化していた。 よう…

バス・トイレ別

体を洗うのが面倒になり、とりあえず今は眠ってから朝にシャワーを浴びることにしよう…と思うことが時たまある。しかしいざ布団に入ると体のあちこちが痒く感じたり、髪の毛がやけにゴワゴワする様に思えたり、目の周りに違和感を覚えたりして結局シャワーを…

コーヒーとイブA錠を支えとする

多分自宅の玄関のドアには見えないスイッチがあって、そこでぼくは頭を切り替えているのであろう。そう思った。 家で勉強ができないのだ。 家の外では身の回りは整えるし、勉強もできるし、完璧に振る舞えているとは言えなくとも社会についていけるだけの器…

春は静かに

およそ一週間ぶりに外に出た。たった一週間、それも比較的自由のきく環境だというのに外出しないだけでここまで心に負担が来るのか、と驚かされた。ちょっとした外出自粛でこれなのだから多分ぼくは潜水艦に乗せられたらすぐに発狂するだろう。『Uボート』と…

音楽における「うた」

ここしばらくバストロンボーンを吹けていなかったのでオクラミュートをつけて吹いてみた。消音能力についてはかなりのものだしその割には音程も狂わず抵抗も程よいのだが、いかんせんなれていないので発音はブレるし音も当てにくい。これはミュートのせいと…

来期のスコア

バイトから帰ってくると郵便受けに白い大きな封筒が挿さっていた。次の定期演奏会で演奏するブラームスの交響曲第2番のスコアが届いたのだ。 品のいい薄い空色の表紙をしたブライトコプフ・ウント・ヘルテル社のスコアを見るだけで心は躍る。中を展くと生真…

ニトリで机と椅子を買った話

B'zに「いつかのメリークリスマス」という名曲があるが、その歌詞に「(抄前)君の欲しがった椅子を買った 荷物抱え電車の中 ひとりで幸せだった」という一節がある。 つまり彼は椅子を抱えて電車に乗り込み帰宅するのである。あり得なくはないがその光景は…

春を前に思うこと

もう春と言ってもいいのだろうが、気持ちとしては春は4月からなのでまだ冬ということにしておく。そもそも信州人の感覚としては3月はまだ寒いし、4月に入っても桜なんぞ咲く予感さえしないのである。まあ、昨今はコロナウィルスの影響で季節の移ろいに想いを…

ドホナーニの交響曲第2番に思うこと

今年に入ってからショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」とプロコフィエフの交響曲第5番の実演に相次いで触れる機会があった。両者はともに第二次世界大戦中に書かれた交響曲である。前者は戦争をかなり直接的に描写しているし、後者もプロコフ…

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』

北欧のある現代美術館に《ザ・スクエア》なる現代アートが展示される。それは四角く囲われた領域を設定し、その中では誰もが等しく扱われるという説明書きをもつ社会の格差や貧困への問題提起を孕んだ作品であった。 《ザ・スクエア》のキュレーションを担当…

身に付けなくてよかった能力

もし「お前は努力したことがないのか」と訊かれたら、否定できるかぼくは怪しい。努力らしい努力をしたためしがないのだ。 大学受験で夜十時半まで勉強していた時期はまあ努力していたのだろう。しかし、問題集を完全に終わらせることはできなかった。第一、…

ひとりということ

大学一年生の頃、ぼくはそれはそれは孤独だった。信州の小都市からひとり、遠くの都会に出て、いきなり一人暮らしを始めたのだから。 もともと人と話すのは苦手だ。今まで生きてきて、友達と呼べそうな人は二、三人いるかどうかである。まして見知らぬ土地の…

外に出る

「一人では多すぎる。一人ではすべてを奪ってしまう」と述べたのはウィラ・キャザーであった。これは恋愛についての話で、一途なぼくは「これはないだろ…」と思ってしまうのだが、しかし生活についてこれを当てはめるとなるほど、と思わせられる。 昨年の冬…

『悪童日記』

アゴタ・クリストフの『悪童日記』を知ったのはある日の音楽学の講義だった。直接音楽に関係するわけではないのだが、『悪童日記』のモデルとなった地域というのは音楽の歴史上注目すべき場所だったのである。 さて、『悪童日記』である。主人公は双子の兄弟…

ヨーゼフ・ロートにとってのハプスブルク君主国

ヨーゼフ・ロートはオーストリア=ハンガリー二重帝国支配下のガリツィア地方(現在のウクライナ)に生まれた作家である。今回は彼の著作をもとに、そこで語られるオーストリア=ハンガリー二重帝国、即ちハプスブルク君主国像を考察し、彼のハプスブルク君主…

レニングラード交響曲

ある人は傑作と称え、ある人は単なるプロパガンダと見る作品。ドミトリー・ショスタコーヴィチの《交響曲第七番『レニングラード』》はそう言って良いだろう。 去る日曜日のことだ。京都市交響楽団が「レニングラード」を演るというので足を運んだ。指定ので…

悲愴交響曲

《交響曲第六番「悲愴」》はチャイコフスキーの白鳥の歌となった交響曲だ。その曲調と遺作という事実が人々に様々な想像を駆り立て、学術的研究から俗説まで多くの議論がなされてきた曲でもある。 さて、それはともかくとしてこの曲はぼく自身にとっても大事…